◻痛みが続く(続くとは、の補足)
1 続く という言葉は二つに分けて理解する必要があります。
(1)続くの主体、主語に当たるものが終われば、つまり終点に到達すれば、 続くというそのこともまた、全体として終わる。
(2) (1) とは異なり、続くがあると一つになった仕方で融合している。
この二つに分けた仕方で、前回 12月 20 日分の考察は、上の(2)に焦点を当てました。
確かに私が出していた人柄や人格の例の場合、主語に当たる中村さんが 死んでしまえば、その続くということが終わります。
中村さんは死んだから。
言葉の上での表現が、
『中村さんはおっちょこちょいである』、が
『中村さんはおっちょこちょいで あ っ た』
に変わるのです。
ところが、会社の株式上場の場合、上場が終わっても、
必ずしも会社がなく なる訳ではない。
3 『富士山はあり続いている、富士山はある』の場合、確かに富士山がなくなる時には、『富士山はあるのではない、富士山はあった』、になります。
だが、よほどのことがなければ(この世の終わり?)、
富士山がなくなる、とは考えられない。
何故なら永続するものだ。永遠の存在だから。
4 さて、残していた例、
左の肩が痛いはどう考えたら好いのでしょうか?
人柄や人格という在り方と同じようにその続く、つまり
「痛い、痛む」は考 えることが出来ます。
痛みの続くことは、ネガティブな存在の痛みと一つになっているのです。
5 ここで、大切なことは痛みの存在を病気の続くこと、つまり病気の dispositio ではなく病気の habitus として考える視点に立つことです。
湿布薬を張り続けたら、直った、一度整形外科に行って診察を受けたら、痛みがなくなった、こうした以上の困った事態を問題にすべきです。
新しく、どうしてという痛みの原因が関心事になって来るからです。
そしてほぼ同時に、左の肩の痛みという魂の受動・感情に不安が
付き纏うようになります。
癌のせいで、肩が痛いのかも?
これまで、生きて行くことが無難だったひとに、自己をどうやって
持続させたら良いか?という難問が浮かんで来ます。
もしも、癌だったら死が迫っているはずだ。どうしたらいいのだ。
👋
0 件のコメント:
コメントを投稿