2023-04-20

新 ハビトゥスの探究の始め(1)

&&&&&&   しばらく休んで中断していました。ハビトゥスについてのわたしが提起している問題とは

次のこと、トマスの提起しているsubstantia ipsa habituumとは何を言っているのかでした。私はその ipsa という強意を表わす言葉が解らなかったのです。だがこれから、そのことを明らかにする積りです。

 

1善の視点

四つの質についてのアリストテレースの考え方を要約すれば、

第一の質がディアテシスとヘクシス、第二の質が生れ付きの能力とその無能力、第三の質が受動的な質、諸々の状態、

そして 第四の質が形状や形姿という区別において語られている。【この次の投稿にアリストテレスの第二の質と

第三の質等々を記載します】

 

   問題となるのは、トマス・アクィナスの考察の独自性として ハビトゥスの存在がある何らかの《善》の意味を持って

いるということである。

驚かされるのだが驚くべきことに、これからの考察とは、

アリストテレースの『カテゴリアイ』の持つ自然学の論理学的な性格を越えてしまうように思われるのである。どうしてそんなことが出来るのか。全くの革命的な事態です。

 

何故ならば、自然学Phisycaというわれわれに取ってまだ理解しやすい場面から、形而上学 Meta phisycaという難しい場面へと新しい考察が始まろうとしているからです。

 

3 いまトマス・アクィナスの説明に耳を傾けてみましょう。

 

トマスの質の理解とは「存在するもの」についての質という意味で「存在するもの」におけるある『様態 modus 』という洞察である。

しかし、様態とはある測りに基ずく限りでの『限定 determinatio  』を意味する。

 

トマスはこの様態として、「存在するもの」における≪類 genus ≫と≪種 species   を考える。そして その本質的な

規定が『実体的な存在』と『付帯的な存在』 である。

例えば、(多くの動物がいる時)ひとが現われた時に、≪これは人間である≫という言表をすることがあります。またそこから 例えば、≪この人間 女性の山野さんは色が白い ピンク色だ≫という言表を私たちはすることがあります。

 

このうちで、ハビトゥスとは如何なる質を持つのかという

探究にとって意義を持つのは後者の『付帯的な存在』です。 

今日付加価値の高いという言い方をしますが、その根底にある考え方です。

 

4 単なる類としての人間ではなく、《この》人間の存在は、他に  例えば、量的な存在、そして四つの質的な存在等の

様々の『付帯的な存在』を持つことが出来ます。そしてこの≪持つことが出来る≫とはそれらに≪与かることが出来る≫に他なりません。

そして、この【分有】という視座がトマス・アクィナスの

Metaphisyca の論理的な特徴を成し、アリストテレ-スの

Phisycaの論理である言表•言い暴くこと と違いを作って

いると考えるのです。

 

しかし、もう少し語らなければなりません。

今日はここまでです。

 

2023-04-17

新しい《海》への航海の仕方(1)

1 僕が新しく見つけた言葉は〈耐える〉という言葉だ。

 

トマス・アクィナスに教えて貰ったことだが、

〈耐える〉を二つに分け、

積極的な意味と積極的でない意味に別けて考える。

家にある英語の語源辞典の一つに、endure とは積極的な意味での〈耐える〉ことだとあった。

 

2だが新しく見つけた言葉、《積極的な意味で耐える》とは何か。

 

〈耐えること〉が持続可能なものになり、決して先細りしないで続く。トンネルが段々と明るくなって行く。そのひとに、ある希望に似たものがいつもある。

〈耐えること〉がそのひとにおいて持続のハビトゥスになり、他人が負の感情でしか観ないところの〈耐える〉そのものが、ある明るさに変容していく。

 

しかしながら、普通僕たちが熟知している〈耐える〉は、どこか暗いものだ。堪える、忍耐する、我慢する、屈辱を受ける 等々の先細りする言葉のオンパレードだ。

 

私たちの慣れ親しんだ耐える世界にサヨウナラをして、新しい意味での耐えるの世界に入って行こう。

この全きの明るではないが、灯りのような明るさに

与かれる世界に入って行こう。

 

これだけが新しい海へ航海していく≪道≫なのだ。

遠く浜辺の砂浜に見える古い耐えるを忘れて行こう。

 

3 だが、私たちが熟知している耐えるから、新しい意味での耐えるの《先に》何があるのか?

 

それが、全き仕方で耐える存在である我々の主、

イエス•キリストである。究極の耐える存在に倣って、私たちも日々の生活においてすべてを耐えて行こう。

 

ユダヤ人の同胞ではなく、異邦人へイエス•キリストを説いて今日のキリスト教の礎を築いたパウロの

次の言葉を覚えているだろうか。

――――― いつも喜んでいなさい

 

 

2023-04-05

新しい〈海〉へ出航しよう

1 70歳を越えて望みを持って生きている、明日から先の

希望を持っているんだ、と確信的にその笑顔を挙げるひとは居ないのだろう。しかしだ、筆者の私はその希望とその歓びを持っている。死が近い今もだ。

 

2 どうしたら一体、そんなことが出来るのか?

その可能な考え方とは、自分は舟に乗ってもう岸辺を離れてしまっていると思うことだ。

何処へかって。舟の行き着く所は新しい〈海〉だ。

 

舟から遠くを振り返ると、岸辺の砂浜に多くの人が見える。皆、希望から離れてただその日の暮らしが精一杯の人間達だ。

人々が小さく見える。

 

3 日曜日は『枝の主日』だった。

まだ完成していない自分の教会ではなく、春日原市の方にある(高架になったばかりの)西鉄春日原駅から歩いて、約20分かかる光ヶ丘教会へ行く。

若い十時神父が司式する教会だ。

 

人々の歓呼の声で迎い入れられたイエスは、このミサの中での受難劇では、多くの人の憎悪を受け十字架の苦しみのうちに死んでいく。

 

私には、出航しようとしたイエスが浜辺の砂浜に引き戻されそこにいた人々に惨殺される姿が浮かんだ。

 

教会内は神父を180度に囲む形を取り、親しみやすいところだ。比較的に若いひとが多く眼に付いた。

 

 

3出航する元の歌は《君と出航しよう》と唄う本当の希望の唄である。歌われる〈 con te partiro 〉のイタリア語の詩の二番の次の箇所が特に素晴らしく、その詩(一部)を記しました。

 

・・・だが、今ここからさよならをする時が来たのだ

私が見たことも行ったこともない国へ

  今貴方と生き、共に旅立とう

    

     船に乗り、海を超えるんだ。そう、既に

過去の海になっているを

 

     貴方と再び生き、貴方と共に旅立とう、

     過去になっている海を見捨てて、

     共に蘇るのだ。

 

 

wmwm:前回の記事で誤りがありましたので、

訂正します。

『時代は変わる』は時代の誤りでした。

謹んで謝ります。