1 僕が新しく見つけた言葉は〈耐える〉という言葉だ。
トマス・アクィナスに教えて貰ったことだが、
〈耐える〉を二つに分け、
積極的な意味と積極的でない意味に別けて考える。
家にある英語の語源辞典の一つに、endure とは積極的な意味での〈耐える〉ことだとあった。
2だが新しく見つけた言葉、《積極的な意味で耐える》とは何か。
〈耐えること〉が持続可能なものになり、決して先細りしないで続く。トンネルが段々と明るくなって行く。そのひとに、ある希望に似たものがいつもある。
〈耐えること〉がそのひとにおいて持続のハビトゥスになり、他人が負の感情でしか観ないところの〈耐える〉そのものが、ある明るさに変容していく。
しかしながら、普通僕たちが熟知している〈耐える〉は、どこか暗いものだ。堪える、忍耐する、我慢する、屈辱を受ける 等々の先細りする言葉のオンパレードだ。
私たちの慣れ親しんだ耐える世界にサヨウナラをして、新しい意味での耐えるの世界に入って行こう。
この全きの明るではないが、灯りのような明るさに
与かれる世界に入って行こう。
これだけが新しい海へ航海していく≪道≫なのだ。
遠く浜辺の砂浜に見える古い耐えるを忘れて行こう。
3 だが、私たちが熟知している耐えるから、新しい意味での耐えるの《先に》何があるのか?
それが、全き仕方で耐える存在である我々の主、
イエス•キリストである。究極の耐える存在に倣って、私たちも日々の生活においてすべてを耐えて行こう。
ユダヤ人の同胞ではなく、異邦人へイエス•キリストを説いて今日のキリスト教の礎を築いたパウロの
次の言葉を覚えているだろうか。
――――― いつも喜んでいなさい
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