2020-12-31

年の瀬に考えたこと

 

 

 

 

 

 

1 最近の言葉、急に飛び出して来たように見える言葉に『脱炭素化社会』が

有る。

 

温暖化対策というこれまで好く知られている言葉を更に、絞り込んだ

表現なのだろう。

単純に、脱ガソリン社会を目指す、と言わないまた言えないのが

 

ミソなのでしょうか。

 

エンジンの要らない、電動化した車は、僕が驚いたことに、将来的には、

現在の乗用車の五分の一まで値段が下がる、と昨日の新聞にありました。

 

エンジンで動いている車は、3万もの部品が必要とのこと。

 

ところが、脱炭素化社会の実現は、ガソリンで走る車を造る会社に

籍を置いて働いている多くの技術者、そして部品を供給する会社の技術者、

更には、ガソリンスタンドでガソリンを供給する為に働いているひとに
決定的な犠牲を強いるのでかと思う。

 

自動車産業の裾野は広く、しかも日本の経済の中核を成している、

それでもその枠組みを変える、いや変えなければならない一歩、

手前まで来てしまったということか。

というのは、ドイツや中国、その他の国においてガソリン車を何年からは

造らない、という声が強く叫ばれはじめている。

まるで、日本への包囲網が出来つつある感じだ。

 

2 毎年、夏になる6月から大雨による災害が日常化して、その主な原因が

車の排気ガスであることは疑いようがない。

 

それでも、しかしながら、コロナウイルス肺炎感染症拡大による経済の

落ち込みが持続する最中、日本の経済は厄介な問題をまた、

解決すべきものとして抱えているように考える。

 

お詫びいたします。

8月に使っていたスマートフォンが壊れ、Windows10のメィルからの投稿を

続けています。

キーボードをたたく時、失敗しています。投稿した後に訂正が出来ないようで

失礼しています。

2020-12-30

持続するもの、人柄と人格 (2)

 

3 湯川秀樹の父親の名は小川琢治(たくじ)である、その子三男である                  

秀樹は養子になる前は、小川秀樹と呼ばれていた。

以下はそのままの引用です。

//////////

父琢治は、若いころには、地質調査のために全国を歩きまわったし、          明治三十三年、パリで開かれた万国地質学会議には、三十歳で日本の代表として参加している。

私が知ってからも、仕事には非常に熱心であった。が、そういう学者というものは、とかく子供たちに対して、ある場合には無頓着でありすぎ、ある場合には厳格でありすぎ、子供の目から見れば、                   やさしさに欠けることもないとは言えないないようだ。

🐸00000# 00000000#飛びます🐸🐸🐸🐸🐸🐸🐸🐸🐸

『子供を甘やかしてはいかん』父は、母に向ってよくそう言った。
『そんなことをおっしゃっても、まだ小さいんですから--』
父はしかし、子供が子供らしいことを美徳だとは認めなかったようだ。
【旅人18頁-19頁】

続きます

)角川文庫   旅人   ある物理学者の回想   昭和35

🌌前回の間違い:🌔ノーベル物理学賞賞を受賞した年は1948年

🌒 祖母は母方ではなく、父方でした。

 

FW: 持続するもの、人柄 そして 人格

 

持続するもの、  人柄 そして 人格 ()

 

これからの自分の考察の中心概念となる人格(ひとの人格、法人としての人格)

について、準備的に具体的な形で書き進めています。

 

1 戦後、日本人で初めてノーベル賞を貰った湯川秀樹が書いた自己のエッセイ、

正確には家族を含めた自己評伝の好さは、自己の学問の

深まりについての記述以上に、自己や自己を囲むひとについての洞察が

しっかりしていることだと思う。

 

科学が自己の思いの外に出て行く仕方で真理を追求する、もっと言えば、

それ自体である存在へ向かう。ところがこれとは正反対に、そうした自己とは何なのかを

見極めようとする姿勢が顕著なひとが

湯川さんなのである。

 

2湯川氏の『旅人』註)のなかでの全体の著述は、ノーベル賞を

頂いた後で終わっていて、本全体が何処か謙遜さを備えている。

つまり、受賞後の人生は書かれていない。

そして、ノーベル物理学賞は1953年、約70年前である。

 

彼が自己の性格、人柄 そして 人格について言及する場面は少ない。

 

まだ、小さな時に母親(昭和18年に亡くなる)に東京で最初に住んでいた

お家はどんなものなのだったかを聴く場面。

 

母方の祖母が、自分の能力を認めて『子供たち三人の中で一番

頭の良いのは秀樹じゃろう』と語る場面。

 

3 父親を描く文章が印象的なので、長くなるが『旅人』から

そのまま、引用したい。

続く

2020-12-20

続くとは

続くとは      続きの後半

 

続くのなかの、別のある例は、続くがあると一つになっています。

 

誰々の人柄は大学の時と変わっていない( = 大学の時の人柄が今も続いている)

とは

例えば、昔、おっちょこちょいだったが、いまもそうだ。

 

言葉の不思議さとは言い過ぎでしょうか、私達は

中村さんは おっちょこちょいであり続けている、とは言わない。この代わりに、

中村さんは  おっちょこちょいです と言い切ります。

 

富士山について、富士山はあり続けているとは、言わないのです。ただ、

単純に 富士山はある、そしてまた美しい  等々 というのです。

 

 

それでは、残っている例の  肩の痛みが消えない (今も痛みが続いている)は

どの様に理解したら良いのでしょうか。

 

続く

 

 

 

FW: 冬咲く明るい花 (1)

黄色とピンク色の右側に丸い球形の

緑色が見えますか。春先の緑色と

勘違いしそうに鮮やかです。

2020-12-13

続くとは

 

続くとは      続きの前半

 

続くという言葉は二つのタイプに分けて、考えることが出来るのではないか。

 

雷が鳴り続く

病院の建設工事が続く

会社の株式の上場が続く、とは何々が続くという言い方の

何に当たる部分がその終点、終着点に着たら、続くが終わる。

 

そして、それと同時に、その主体部分が消える。

 

雷がなくなる、工事がなくなる、上場しない会社になる。

 

 

 

これに対して、続く、その終わり な い という構造とは

異なる 続く、そして あ る という構造の続くがあるのでは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2020-12-12

公共の福祉

 

公共の福祉     来年も底流となるべき思考

 

憲法と言えば、憲法を改正しろ や 平和憲法を守れが相場なのでしょうか。

声高に主張されるべきことがあるのでは。

 

』』』『『『『『『『  『『『『『『『『『『『『『『『『『『『『『『『

 

自分のいのちを守れ、それが憲法の言う公共の福祉なのだ。

コロナウイルスにかかるな、それが公共の福祉だ。

 

自分のいのちを守れ、それだけで、周りが明るくなる。

 

手を洗え、マスクをつけろ、それがひとを大切にすることだ。

 

よく食べて

よく寝る、それが公共の福祉だ。

2020-12-11

FW: 変な枯れ葉

 

 

Windows 10 版のメールから送信

 

差出人: 0em3064y725588v@au.com
送信日時: 20201211 20:30
宛先: takanori0402kaneko@outlook.jp
件名:

 

 

 

FW: イエス キリストの降誕

 

 

上の写真は北九州市小倉カトリック教会入口に見出されます馬小屋、

イエスキリストの御降誕の馬小屋です。

 

小倉駅からモノレールで、平和道り、旦過そして香春三萩野、

ここから、歩いて直ぐです。モノレールを右上に見ながら歩く。

 

由緒あるカトリック教会です。

 

 

 

 

 

2020-12-06

続くとは

続くとは            持続の意味を明晰に する                20148月日投稿記事 に手を加えて再放送

 

1 大学に居た時、中学生の家庭教師をしたことが有りました。

 

その男の子に『遠いとはどういう事か』と、尋ねたことがあります。

すると、彼は眼を白黒させただけでした。変なことを聞かないで。

 

続くとはどのようなことか、と問う時も、同じ様な当惑が起こり、そして結局、

続くとは何かが続くことさ、と言って、そこで終わりかも知れません。

 

 

  そこでまず、『何が続くのか』に焦点を絞った話を考えました。

 

私たちは、日々、よく何らかのものが続く、という言葉の使用に出会いますが、その経験主義的な使用法に

眼を凝らしてみましょう。

 

以下の用例は、続くと極めて類似した言葉の世界へ開かれたものです。

 

例えば、

先週、雷が15分程、鳴り続けた

病院の建設工事は、まだ継続中だ

あの会社は設立以来、上場を維持している

中村氏の人柄は大学の時とあまり、変わらない

まだ、左肩の痛みが消えない

 

3 これらの例の分析から出て来る洞察が有ります。

 

それは、『  続く 』には二つの意味があるのではないか。

 

続けます

2020-12-05

FW: 時間 と 魂の存在

 

 

 

 

時間と魂の存在      三回目の続き  その後半

 

  私は 実は、ルカによる福音書 15 11節からのイエスの話しのタイトルに

見出される『放蕩息子』という全体の構図を定めてしまいかねない表現を好みません。

教会に通っているキリスト教信者の多くは、自分と関係ない話だと思い、上からの視線で

主人公の二男を自分たちから離れた存在としか観ないかも、と考えるからです。

 

キリストの教えから離れて生きているひとが、あるキリスト教信者に敬虔な、と

いう形容詞を貼り付ける、しかし、自分とは関係ない離れた彼岸の世界だと考えるのと

似ています(何とか生きのびている現在の自分に、遠い言葉が 実は 敬 虔 です)

 

2 大切なことは、二男を自分と同じ様な人間であると観れるか、どうかだと考えます。

 

男は追い詰められて、何もない、多くのブタだけが居る。

ところが、ただの孤独の世界に唯一、残されていた「 考えるちから 」とそこから紡ぎ出された

「言葉」が何と男を浄化したのでした。

 

     お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。

もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にして下さい。

 

3 家に向けて出発した息子を待っていたのは、父の愛情でした。何の連絡も入れず、帰宅の情報を与えていなかったのに、

 

  まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて哀れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した(20)

 

とあります。

 

父は息子が考えていたように、単なる財産の持ち主ではなかったのです。価値あるものの所有者ではなく、「持つ」を超えた、つまり、Ousia【ある】を実現していたひとだったのです。

 

  面白いのが、二男を迎え入れる事を耐えがたきこととして、家に入れることを拒絶した長男の存在です。

 

長男はお父さんを、二男が最初考えていたように、財産 ousia 、富の所有者だと考えているのです。

家の財産を無駄遣いして帰って来た二男を、何故家に入れなければならないのだ。

 

この論理的に正しい長男の主張は、わたし達の考えでもあります。

あるとは富を持つことだ、そして、富を持つひとがあるひとだ。お父さんはまさしくこのひとなのだ。

 

二男の360度回転した思考の転換、あると思われるものから真にあるものへの視線変更と

コントラストを成す長男の旧態依然?の考え方。

 

改心した二男の、わたしは『 罪を犯しました 』は あ る に関して洞察の大変換だったのです。