1 どこの家にも有るような目隠しの木、壁となる木が家の南西の隅に5m程ある。
深緑で、成長が早いほうか?
ところが、その木(名前が出てこない)の枝の根元から
モミの木が生えていることに気付いた、約一年程前である。
最近、小郡市の住宅街で同じような現象、もみの木を見つけて、これは稀有では
ないかも?と想うようになった。
2 稀有な存在といえば、稲垣良典先生ほど稀有な存在は居ないかも知れないと。
アウグスティヌス、アンセルムスそしてトマス・アクィナスと連なる山脈 註)———の中で、古代ギリシャの哲学思想の後にやって来る中世の哲学思想の研究者のひとりなのであるが、変わっていることに、
中世をやるひとは、近代の勉強をしないといけないと仰っている。
具体的な話をすれば、経験の意味を考えないといけない。哲学思想の分野に
足を踏み入れるひとは、経験やその担い手の魂の働きの意味を考えないといけない。昔は、批判的であったイマヌエル カントを最近は高く評価なさる、———
カントの理性は<本当の理性か?>
良く勉強しているわけではないので、まだ、調べる必要があるが、日本の中世哲学思想の研究は、経験概念を大切にして山に登っていない。
3 稲垣先生の稀有なところは、経験や知性、理性とは何かを、どれ程のものかを徹底して考える点にあるのだろう。
分かり易く言えば、自己とは何か、をわたしはまだ知らない。
だから、自己とは何かを探求している。それも、一生を掛けて。
4 更にである。
経験と言えば、知覚や行為に眼が行く。こうした一過性、一回だけの経験を超えた経験、トマス・アクィナスのhabitus で表わされる安定的な習慣、
持続的な習慣こそが『経験の経験』として重要だ。
5 そして、理性に関しても、その拡がりは自己の認識まで及ぶ。
行き着く所が、自己が「欠けていることの把握」において、意志の次元の
理性へ考察が高まる所だろう。
近代人が忘れている善とは何か、を考える視座を確保しているおられるのだ。
確かに我々が慣れ親しんだ効用と効率の世界もある何らかの善なのだけれど。