2020-10-31

何々州がない!

 

先週25日土曜日に読んだ全国紙一面、左側面に「民主主義問う10日間」という大きな見出しが出ていました。

そして、アメリカ合衆国主要激戦区での、トランプ氏の支持率と

バイデン氏の支持率を並べて予想していました。

 

それで、何故、投稿したのか?

 

よく見てください。

 

おかしい所に気付きません?

 

フロリダ州、テキサス州そして何々州は、アメリカ合衆国大統領

選挙において宛がわれている選挙人の数が多いエリアです。

 

選挙人の総数は538人です。この過半数の270を取った候補が

勝ち、総投票数の数は無関係です。

 

先日、トランプ氏が投票したフロリダ州(僕はああ、ハリケーンが通るとこか! 位の知識しかない)で負けたら、危ない(=大統領選挙で負ける)と、

NHKの朝六時のニュウスのが言ってました。

 

11月の選挙が終わったら、上の支持率が本当か、どうかが判明します。

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例のもみの木です。もみの木の寄生?をハッキリさせる為、

周りの部分を切り落しました。

 

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時間と魂の存在 一回目の続き

 

 

🌏 保存した、と思っていたら、投稿になっていた。 腹這いになって、文字を打っていたからか(いや、アルツハイマーのせい?)。

今は椅子に座って投稿をしています。

 

前回の記事の残りをお読み下さい。

 

 

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  後者に関して補足します。

 

理性と感性を区別します。

 

この区別は解かりきったようにみえます、特に現代社会で生きている人間には。

 

解かりにくくなるのは、想像  imagination     という概念を持ち出し、

理性と想像は何処で区別されるのか? また 想像と感性は何処で区別されるか、を

かんがえはじめることです。

 

2 具体的に話を進めますと、

今、眼が失明しているひとがいると仮定します。 すると、そのひとにとっての、

理性と想像の違いをどのように考えたら良いのか。

 

理性の意味をその働きの視座から明らかにします。

すると、計算することがまず、浮びます。ひとが外に食べに行き、勘定します。

高いと安いの判断が起ります。 Reason から来る reasonable が 安い cheap

意味で使われているのは面白いかも知れません。

 

ところが、ここで、想像力という想像の働きはどう関与しているか?

 

さらに、推理するという理性の働きに眼を向けて下さい。

推理する時に、想像のちからが入いっててくるのではないか?  もっと

強く言えば、想像のちから無しに推理が有るのか。

 

失明して生きている人間には、特に見るちからは失われていると

考えられますが、想像のちからが支配的な仕方で推理するのか。

 

3 これからのわたしの考察の仕方は、これまでの投稿のなかで一貫して

来ている手法を用いる遣り方です。

つまり、何かを考える時、二つに別けろ、です。

 

感覚という働きがある。想像力という働きがある。理性の働きがある。

 

感覚の働きを二つに別けろ。

想像力を二つに別けろ。

理性の働きも二つに別けろ註)。

 

考察を続けます。

 

 

註)

後でしか、触れませんが大きくは、いわゆる理性の働き(観想的、実践的な

理性)と、意志の働きの二つがある。

さしあたり、上の記事のなかでは、想像力を二つに別け

理性的な意味での想像力と感覚的な想像力を考えています。

時間と魂の存在 一回目

 

これまで提示して来たことの、より基礎的な考察を始めます。

時間論を貫く記憶そして想起の概念をより明晰にする仕事に入ります。

 

この明晰化の仕事の柱は、トマス・アクィナスの habitus という言葉の明晰化と

わたしたちにおいて見出すことが出来る理性の概念の明晰化です。

この二本です。

 

後者に関して補足します。

理性を、感性と

2020-10-24

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左側に見えるのが何とかとモミの木(ほんとに一部分的な )。

 

今も、その何とかの名が出て来ない。

 

妻に聴いたら、忘れた。二人ともーーーかも。

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秋の緑色とコントラスト

 

葉っぱの中を走る白い線に眼が行って、撮りました。

 

補足

 

稀有な存在への補足です。

 

註)を付けるのを忘れていました。

自分もアルツハイマー病の初期段階ではないかと思います

(本当は中期に入っている?   日記の積もりでブログ投稿を続けているが、

     書くことが呆け防止に成ることを期待している?、70過ぎて投稿を

     している人はだいたいそうかも知れません)

 

アウグスティヌスは、山田晶教授の訳で知られる「告白」の八巻での悪戦苦闘を

考えています。自己における性欲過剰的な鳥もちの世界から逃げ出そうとして

教会に行こうとするが、うまくいかない。

(神を求めているのに、自分は神から見棄てられている?   どうしたらよいのだ!

途がないとしたら)

 

自己を持ち続ける、自己を存在するものとして 持 続 し づけるにんげん に

成るそのことで悪戦苦闘したアウグスティヌス!。

アウグスティヌスは実は私たち近代人間の祖先です。性欲過剰な人間でないとしても、似たような欲望過剰が近代と現代を支配しているのは疑えないと考えています。

2020-10-23

考えることは考えることですか ぷろぐ再放送 平成13年1月

プロローグ:考えることは考えることに決まっているじゃないか。何バカなことを

                      言っている?

                                       でも、解り切ったことにしてませんか?

考えることを。

     

                  考えることは自明なことでは有りません。

                       何十年も経って、考えることの奥深さに覚醒する時に、

                      其れまでとは違った人生、明るい生が始まるのです 。

 

👩🦰  躰を使わないで、頭だけを使うことが  考えることですか?

👴  いえいえ、そうではありません。

 

👩🦰あたまの中で、グルグル回ることが  考えることですか?

👴いえいえ、 そうするではありません。

 

 

👩🦰  それでは 自分の頭の中で、もう一人の自分と お 話することが

考えることですか?

👴その通りです。

 

でも まだまだ足りません

 

 

👩🦰   先生、疲れました。何が考えることですか?

  一体?

 

🎅     急がなくてもいいです。

牛は、草を食べて押し込んだ胃袋から、また咀嚼します。

貴方も牛に成ってみたら?

👩🦳 もおうーおう。

2020-10-19

♪♪ 稀有な存在♪♪

1 どこの家にも有るような目隠しの木、壁となる木が家の南西の隅に5m程ある。

深緑で、成長が早いほうか?

ところが、その木(名前が出てこない)の枝の根元から

モミの木が生えていることに気付いた、約一年程前である。

 

最近、小郡市の住宅街で同じような現象、もみの木を見つけて、これは稀有では

ないかも?と想うようになった。

 

  稀有な存在といえば、稲垣良典先生ほど稀有な存在は居ないかも知れないと。

 

アウグスティヌス、アンセルムスそしてトマス・アクィナスと連なる山脈 註)———の中で、古代ギリシャの哲学思想の後にやって来る中世の哲学思想の研究者のひとりなのであるが、変わっていることに、

中世をやるひとは、近代の勉強をしないといけないと仰っている。

 

具体的な話をすれば、経験の意味を考えないといけない。哲学思想の分野に

足を踏み入れるひとは、経験やその担い手の魂の働きの意味を考えないといけない。昔は、批判的であったイマヌエル カントを最近は高く評価なさる、———

 

カントの理性は<本当の理性か?>

 

良く勉強しているわけではないので、まだ、調べる必要があるが、日本の中世哲学思想の研究は、経験概念を大切にして山に登っていない。

 

3 稲垣先生の稀有なところは、経験や知性、理性とは何かを、どれ程のものかを徹底して考える点にあるのだろう。

 

 

分かり易く言えば、自己とは何か、をわたしはまだ知らない。

 

だから、自己とは何かを探求している。それも、一生を掛けて。

 

4 更にである。

経験と言えば、知覚や行為に眼が行く。こうした一過性、一回だけの経験を超えた経験、トマス・アクィナスのhabitus で表わされる安定的な習慣、

持続的な習慣こそが『経験の経験』として重要だ。

 

5 そして、理性に関しても、その拡がりは自己の認識まで及ぶ。

 

行き着く所が、自己が「欠けていることの把握」において、意志の次元の

理性へ考察が高まる所だろう。

 

近代人が忘れている善とは何か、を考える視座を確保しているおられるのだ。

確かに我々が慣れ親しんだ効用と効率の世界もある何らかの善なのだけれど。

2020-10-11

投稿

 

 

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これまで      これから

1 物事を経験主義的に考える。この反対は、物事を観念的に考える。

で、ぼくは観念的に考える人、また観念的に生きている人を毛嫌いしている。何故か?

 

経験主義的に考える、この何処がいいのか?

経験主義的に考える、このことから直ちに何らかのリアリティに届く、とは考えられない。ただ、

自分の目を通して、また自分の知性や意志の発動を含めた意味での理性的に魂の働きを行使することは、

失敗に終わる確率が高くても 次に進むステップを創る。

 

リアリティへと向かう準備をしている。だから、自分は経験主義的に考える人間だと思っていても、

誤りに気付き、その誤りの原因を洞察する方向性をまだ、持たないのであれば、まだ未熟な

経験主義に過ぎない。

優れた意味の経験主義は、全体への志向性を持っている。

 

2 これに対して、物事を観念的に考えることの悪い点は、自分の立っている世界や環境の変化を顧慮しないで、獲得している知識を

ただあてがう(もしも、世界や環境の変化を重視する仕方で知識をあてがうのであれば、観念的に考えるにはならない)。

頭でっかち、自己の過去のデータを中心においてしか判断が下せない、新しい状況にある全体を見ようとしない。

 

3 そうは言っても、ぼくは何を言っているのか?

 

例えば、会社で働いているひとは、多くの場合、上司を持っていて、必ずある指示や命令のなかで生きている。

上司が具体的にこうして呉れという時、直ぐに、その発言背景を想定出来るか。

上司はただ彼の個人的な視点で指示を出している、イヤ、正反対に上司は会社全体の意思として指示を出している。

 

このどちらかを経験主義的に考えるちからを持つようにならないと恐らく、会社では生きていけない。

 

4 時間という題で、記憶に焦点を当ててみた。

自分のある、とは何らかの形をした記憶の存在に依る。それも、持続という性格を持つ記憶、

例えば、過去の経験の記憶、そしてこれまでの制度的なものの記憶。

 

更に、上の二つの根底に見出される文化の記憶。

 

これからもう少し、基礎的な考察に入りたいと考える。