聖ベルナールの属した シトー会は、
ベネディクト会 と異なり、華美な側面を
排除した質素だったようだ。
一日に一回の食事、建物の外での肉体労働が
毎日の習慣だった。
9 知るの重みを守る為に、記憶力 を前面に出したい。
すると、私たちの考察場面は二つ有った。
あることを知る と自己を知るの 二つである。
そして、見るとしてのあることを知るは
必ずしも、記憶力が不可欠なものではない 。
しかし反面、自己を知るとは記憶力が不可欠である。
10 見るは、ある場合は既に見たことがあるものを
また見る。この見るはこの限り、それに呼応する
記憶力が不可欠である。
他の場合、見るは新しく初めて、見る。
つまり、見たことがない。そしてこの場合、
それの 記憶力が要らない。
11 ここで 記憶のちから を意味する記憶力とは、
記憶の持続のことであり、トマス・アクィナスの
概念を用いれば、記憶の habitus になる。
今世紀、最大の小説であると推測される
「薔薇の名前」の 舞台になる
ベネディクト会 修道院。
多くの同 修道院 の 中から、インターネットに
載った写真で明るい色調の建物を
紹介します。
詳しい紹介は省きます。
5 自己を知るとは、時間の経過、もっと言えば、
歴史的な時間の重みを必要とします。
例えば、産まれて三年にしかならない赤ん坊が、
自己について何かを知っている、と
言うことは可笑しな事でしょう。
これに対して、長い時間を生きて老年に
達したひとが、苦難と挫折を経験して
これが本当の自分だ、今迄の自分は
本当ではない、と目覚める。
自己を知るとは、その本来的な用法に立つならば、
時間と歴史を欠くことは出来ない。
6 「世界」という言葉を使えば、この目に
見える世界に呼応したで 、通常は
何かを知っていると語る。
恐らく、何かを知っているとは、それを
ある箱に分類することが出来ることでしょう
(ある場合、認識された自己がこの分類
されてしまうことも有る)。
だけども、他方、「世界」が何処か 立 体 的 で、
彼の世界、彼女の世界 という風に、時間(=質的
時間)のなかで、 使われることが有ります。
(旧いヒトの消失した)新しいひとの現れを
認める経験は、 知恵の高まり 命の躍動と
言った 世界の変化に他ならないのです。
7 信じる とは、信じること、信じるべきことが生起すれば、
そこにある 平和が実現するものであります。
聖ベルナールが言うように、自己を知ることに拠り「建物」の
存在を知り、そしてそこに、ある 平和の境地を確認する。。
これが、「崩壊」(=存在するものの非存在へと至ること)
という自己を知ることから離れた世界のリアリティーでは
ないでしょうか。
1 知ること とは何か と問うとき、再帰的に 自 己 を
知ること だ、と言うひとが いれば、それは10 人に
1人か2人のごく、 稀な事態である と
想像されます。
多くのヒト が、何かを知ること が 知ることだ と考え、
その際、この『何か』に入って来るものに
「自己」を入れない、つまり「自己」を考えない。
そもそも、眼に見えるものが、この何かであり、
自己は眼に見えるものではないではないかーーーー
2 それでは、知る とは、目に見えるもの
だけに限定しようと言う時に、どんな困ったことが
思い浮かぶのでしょうか?
もしも、仏や神が存在している と考えていれば、
この目に見えるだけが、私達の知るの向かう
到達目標ではないでしょう。
その知るは、余りにも 狭いからです。
3 聖ベルナールが、知ることが 自 己 を知ることだ!
という時に、知る 知恵 命 を切り離さいで、
三つは近いものだと観ています(前掲頁)。
つまり、自己を知ること とは ある知恵である
〈ただ真の知恵ではない〉、それは
自己の命に与ることだ。
4 この論理を 当てはめれば、
何か目に見えるものを見て、それを『知っている』とは、
それだけで、何らかの形の知恵に与っている、
とは言えない、或いは知恵とは遠いものかしれない。
自己を知ると目に見えるものを知る とは
異質な経験だ。
恐らく、自己を知るとはダイナミックな
経験だろう。
何か目に見えるものを知る とは、自己を
知ることとある溝が有るのだが、
この異質な経験を
一つの視座から語るすべはないだろうか。
🚑前掲頁の註
➀ マタイによる福音書 16・26
② 箴言 9・12
➂ 第一コリントの信徒への手紙13・2
➃ ヨブ記38・16
⑤ ルカによる福音書 6・49
⑥ 箴言 9・12
⑦ あ箴言5・15