2021-09-23

修道院の美しさ (4)

聖ベルナールの属した シトー会は、

ベネディクト会 と異なり、華美な側面を

排除した質素だったようだ。

 

一日に一回の食事、建物の外での肉体労働が

毎日の習慣だった。

 

 

 

 

2021-09-22

🐑 記憶の視点 ーーーー時間の視座に立つ(3)

 

 

 

9 知るの重みを守る為に、記憶力 を前面に出したい。

 

すると、私たちの考察場面は二つ有った。

あることを知る と自己を知るの 二つである。

 

そして、見るとしてのあることを知るは

必ずしも、記憶力が不可欠なものではない 。

しかし反面、自己を知るとは記憶力が不可欠である。

 

10 見るは、ある場合は既に見たことがあるものを

また見る。この見るはこの限り、それに呼応する

記憶力が不可欠である。

 

他の場合、見るは新しく初めて、見る。

つまり、見たことがない。そしてこの場合、

それの 記憶力が要らない。

 

11  ここで 記憶のちから を意味する記憶力とは、

記憶の持続のことであり、トマス・アクィナスの

概念を用いれば、記憶の habitus になる。

FW: 修道院の美しさ (2)

6世紀に創建されたベネディクト会修道院は、

教会分裂 (大シスマ)言われる

1378年から1417年の時、

ヨーロッパにおける知識の宝庫であった。

 

 

 

2021-09-14

修道院の美しさ

今世紀、最大の小説であると推測される

「薔薇の名前」の 舞台になる

ベネディクト会 修道院。

 

多くの同 修道院 の 中から、インターネットに

載った写真で明るい色調の建物を

紹介します。

 

詳しい紹介は省きます。

 

 

2021-09-10

FW: (2)時間の視座から照らす

 

5 自己を知るとは、時間の経過、もっと言えば、

歴史的な時間の重みを必要とします。

 

例えば、産まれて三年にしかならない赤ん坊が、

自己について何かを知っている、と

言うことは可笑しな事でしょう。

 

これに対して、長い時間を生きて老年に

達したひとが、苦難と挫折を経験して

これが本当の自分だ、今迄の自分は

本当ではない、と目覚める。

 

自己を知るとは、その本来的な用法に立つならば、

時間と歴史を欠くことは出来ない。

 

6 「世界」という言葉を使えば、この目に

見える世界に呼応したで 、通常は

何かを知っていると語る。

 

恐らく、何かを知っているとは、それを

ある箱に分類することが出来ることでしょう

(ある場合、認識された自己がこの分類

されてしまうことも有る)。

 

だけども、他方、「世界」が何処か 立 体 的  で、

彼の世界、彼女の世界 という風に、時間(=質的

時間)のなかで、 使われることが有ります。

 

(旧いヒトの消失した)新しいひとの現れを

認める経験は、 知恵の高まり  命の躍動と

言った 世界の変化に他ならないのです。

 

7 信じる とは、信じること、信じるべきことが生起すれば、

そこにある 平和が実現するものであります。

 

聖ベルナールが言うように、自己を知ることに拠り「建物」の

存在を知り、そしてそこに、ある 平和の境地を確認する。。

 

これが、「崩壊」(=存在するものの非存在へと至ること)

という自己を知ることから離れた世界のリアリティーでは

ないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2021-09-05

👩‍🦽 自己を知る の問題 (1)

 

  知ること とは何か と問うとき、再帰的に     

知ること だ、と言うひとが いれば、それは10 人に

1人か2人のごく、 稀な事態である と

想像されます。

 

多くのヒト が、何かを知ること が 知ることだ と考え、

その際、この『何か』に入って来るものに

「自己」を入れない、つまり「自己」を考えない。

 

 

そもそも、眼に見えるものが、この何かであり、

自己は眼に見えるものではないではないかーーーー

 

    それでは、知る とは、目に見えるもの

だけに限定しようと言う時に、どんな困ったことが

思い浮かぶのでしょうか?

 

もしも、仏や神が存在している  と考えていれば、

この目に見えるだけが、私達の知るの向かう

到達目標ではないでしょう。

 

その知るは、余りにも 狭いからです。

 

 

3 聖ベルナールが、知ることが  自 己 を知ることだ!

という時に、知る  知恵    を切り離さいで、

三つは近いものだと観ています(前掲頁)

 

つまり、自己を知ること とは  ある知恵である

〈ただ真の知恵ではない〉、それは

自己の命に与ることだ。

 

  この論理を 当てはめれば、

何か目に見えるものを見て、それを『知っている』とは、

それだけで、何らかの形の知恵に与っている、

とは言えない、或いは知恵とは遠いものかしれない。

 

自己を知ると目に見えるものを知る とは

異質な経験だ。

恐らく、自己を知るとはダイナミックな

経験だろう。

 

何か目に見えるものを知る とは、自己を

知ることとある溝が有るのだが、

この異質な経験を

一つの視座から語るすべはないだろうか。

 

 

🚑前掲頁の註

➀ マタイによる福音書 1626

② 箴言 912

➂ 第一コリントの信徒への手紙132

➃ ヨブ記3816

⑤ ルカによる福音書 649

⑥ 箴言 912

⑦ あ箴言515