5 自己を知るとは、時間の経過、もっと言えば、
歴史的な時間の重みを必要とします。
例えば、産まれて三年にしかならない赤ん坊が、
自己について何かを知っている、と
言うことは可笑しな事でしょう。
これに対して、長い時間を生きて老年に
達したひとが、苦難と挫折を経験して
これが本当の自分だ、今迄の自分は
本当ではない、と目覚める。
自己を知るとは、その本来的な用法に立つならば、
時間と歴史を欠くことは出来ない。
6 「世界」という言葉を使えば、この目に
見える世界に呼応したで 、通常は
何かを知っていると語る。
恐らく、何かを知っているとは、それを
ある箱に分類することが出来ることでしょう
(ある場合、認識された自己がこの分類
されてしまうことも有る)。
だけども、他方、「世界」が何処か 立 体 的 で、
彼の世界、彼女の世界 という風に、時間(=質的
時間)のなかで、 使われることが有ります。
(旧いヒトの消失した)新しいひとの現れを
認める経験は、 知恵の高まり 命の躍動と
言った 世界の変化に他ならないのです。
7 信じる とは、信じること、信じるべきことが生起すれば、
そこにある 平和が実現するものであります。
聖ベルナールが言うように、自己を知ることに拠り「建物」の
存在を知り、そしてそこに、ある 平和の境地を確認する。。
これが、「崩壊」(=存在するものの非存在へと至ること)
という自己を知ることから離れた世界のリアリティーでは
ないでしょうか。
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