2021-09-10

FW: (2)時間の視座から照らす

 

5 自己を知るとは、時間の経過、もっと言えば、

歴史的な時間の重みを必要とします。

 

例えば、産まれて三年にしかならない赤ん坊が、

自己について何かを知っている、と

言うことは可笑しな事でしょう。

 

これに対して、長い時間を生きて老年に

達したひとが、苦難と挫折を経験して

これが本当の自分だ、今迄の自分は

本当ではない、と目覚める。

 

自己を知るとは、その本来的な用法に立つならば、

時間と歴史を欠くことは出来ない。

 

6 「世界」という言葉を使えば、この目に

見える世界に呼応したで 、通常は

何かを知っていると語る。

 

恐らく、何かを知っているとは、それを

ある箱に分類することが出来ることでしょう

(ある場合、認識された自己がこの分類

されてしまうことも有る)。

 

だけども、他方、「世界」が何処か 立 体 的  で、

彼の世界、彼女の世界 という風に、時間(=質的

時間)のなかで、 使われることが有ります。

 

(旧いヒトの消失した)新しいひとの現れを

認める経験は、 知恵の高まり  命の躍動と

言った 世界の変化に他ならないのです。

 

7 信じる とは、信じること、信じるべきことが生起すれば、

そこにある 平和が実現するものであります。

 

聖ベルナールが言うように、自己を知ることに拠り「建物」の

存在を知り、そしてそこに、ある 平和の境地を確認する。。

 

これが、「崩壊」(=存在するものの非存在へと至ること)

という自己を知ることから離れた世界のリアリティーでは

ないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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