1 知ること とは何か と問うとき、再帰的に 自 己 を
知ること だ、と言うひとが いれば、それは10 人に
1人か2人のごく、 稀な事態である と
想像されます。
多くのヒト が、何かを知ること が 知ることだ と考え、
その際、この『何か』に入って来るものに
「自己」を入れない、つまり「自己」を考えない。
そもそも、眼に見えるものが、この何かであり、
自己は眼に見えるものではないではないかーーーー
2 それでは、知る とは、目に見えるもの
だけに限定しようと言う時に、どんな困ったことが
思い浮かぶのでしょうか?
もしも、仏や神が存在している と考えていれば、
この目に見えるだけが、私達の知るの向かう
到達目標ではないでしょう。
その知るは、余りにも 狭いからです。
3 聖ベルナールが、知ることが 自 己 を知ることだ!
という時に、知る 知恵 命 を切り離さいで、
三つは近いものだと観ています(前掲頁)。
つまり、自己を知ること とは ある知恵である
〈ただ真の知恵ではない〉、それは
自己の命に与ることだ。
4 この論理を 当てはめれば、
何か目に見えるものを見て、それを『知っている』とは、
それだけで、何らかの形の知恵に与っている、
とは言えない、或いは知恵とは遠いものかしれない。
自己を知ると目に見えるものを知る とは
異質な経験だ。
恐らく、自己を知るとはダイナミックな
経験だろう。
何か目に見えるものを知る とは、自己を
知ることとある溝が有るのだが、
この異質な経験を
一つの視座から語るすべはないだろうか。
🚑前掲頁の註
➀ マタイによる福音書 16・26
② 箴言 9・12
➂ 第一コリントの信徒への手紙13・2
➃ ヨブ記38・16
⑤ ルカによる福音書 6・49
⑥ 箴言 9・12
⑦ あ箴言5・15
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