2021-09-05

👩‍🦽 自己を知る の問題 (1)

 

  知ること とは何か と問うとき、再帰的に     

知ること だ、と言うひとが いれば、それは10 人に

1人か2人のごく、 稀な事態である と

想像されます。

 

多くのヒト が、何かを知ること が 知ることだ と考え、

その際、この『何か』に入って来るものに

「自己」を入れない、つまり「自己」を考えない。

 

 

そもそも、眼に見えるものが、この何かであり、

自己は眼に見えるものではないではないかーーーー

 

    それでは、知る とは、目に見えるもの

だけに限定しようと言う時に、どんな困ったことが

思い浮かぶのでしょうか?

 

もしも、仏や神が存在している  と考えていれば、

この目に見えるだけが、私達の知るの向かう

到達目標ではないでしょう。

 

その知るは、余りにも 狭いからです。

 

 

3 聖ベルナールが、知ることが  自 己 を知ることだ!

という時に、知る  知恵    を切り離さいで、

三つは近いものだと観ています(前掲頁)

 

つまり、自己を知ること とは  ある知恵である

〈ただ真の知恵ではない〉、それは

自己の命に与ることだ。

 

  この論理を 当てはめれば、

何か目に見えるものを見て、それを『知っている』とは、

それだけで、何らかの形の知恵に与っている、

とは言えない、或いは知恵とは遠いものかしれない。

 

自己を知ると目に見えるものを知る とは

異質な経験だ。

恐らく、自己を知るとはダイナミックな

経験だろう。

 

何か目に見えるものを知る とは、自己を

知ることとある溝が有るのだが、

この異質な経験を

一つの視座から語るすべはないだろうか。

 

 

🚑前掲頁の註

➀ マタイによる福音書 1626

② 箴言 912

➂ 第一コリントの信徒への手紙132

➃ ヨブ記3816

⑤ ルカによる福音書 649

⑥ 箴言 912

⑦ あ箴言515

 

 

0 件のコメント:

コメントを投稿