2020-11-29

時間 と 魂の存在 三回目の続き

 

 

時間と魂の存在              三回目の続きの前半

 

前置き:   書き出して、次に投稿します。 何か間違ったことを

言ってないか、自分の記事に眼を通す。

それを自虐的な感じで繰り返す日々ですが、

              時間と魂の存在とういうタイトルを観て、 《 と 》 の意味が

分からない、曖昧かも、と考え始めました。

 

時間と、言い出すとき 二つの仕方で時間を考えなければ

ならない。

量的な意味での時間 と 質的な意味での時間。

 

そして、わたしたちが慣れ親しんでいるのは、

量的な時間です。

単純に流れて行くものです。

 

この立場に立つ限り、魂の存在という表現は必ずしも、

続いて出て来る必要がない。

 

ただ時間が数えられることにおいて存在する、この限りでは

数えるところの主体としての魂の存在はある意味を

持つことが出来ます。

 

 

ところが、ここで特に、時間と魂の存在という表現とは

質的な意味を持つ時間と(この時間における) 魂の存在のことです。

 

問題は、この時間と魂の存在との結び付きです。以下、

魂の存在を厳密な仕方で理解される魂の善悪として考え、

             質的な意味での時間と魂の善悪が如何なる仕方で

結び付けられるのか、を考えるつもりです。

 

              そしてその手掛かりになる概念が  ハビトゥスとdispositio  です。

 

今日は、前置きが長くなりました。これだけで終わります。

 

続きます

秋の緑色 と コントラスト: 続けています

 

 

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秋の緑色 と コントラスト        続けています

2020-11-22

FW: 時間 と 魂の存在 考察の方向をみる

 

 

時間と魂の存在           三回目

 

 

1 自然本性 や 存在 という言葉は解ったことにしないことが肝心なことではないかと思います。

 

自然本性を眼に見える自然に置き換えてしまう習性、存在とは眼に見える世界を先ず考えてしまう習性、ここから離れることが出来るかどうか、が大切です。

ただ、しかしながら、 distance を取る、と言っても簡単ではないです。

 

もともとそれ自体的にあるところの natura が外化、実体的なものに変化して、

眼に見えるものとして理解されてしまう。

いつの間にか、自然は周知の言葉になるが、原理的な言葉、自然本性は

忘却されてしまう。

 

 

2 そしてまた、存在という言葉も厄介な言葉です。私たちには呪縛が有ります、

眼に見えるものこそ、あるものだ。

 

聖書の ルカによる福音書の15章で 、ギリシャ語の ousia (存在、実体)が

財産、資産という具体的なものを指す用法が見出されます。

 

ここ151132のストーリーは、父親に二人の息子が居て、二男の方がまだ

生きている父親に向かって、自分の分け前になる財産を下さいと言う。

そして信じれないことに、父親はそれを許容するのです。生前の財産贈与。

 

素朴に考えれば、二男にとってのあるとは、当時たくさんの家畜を意味する財産のことでした。お父さんが持っているもの、所有しているものが人生の最大の価値でした。

この限り、父親は信仰の対象、崇拝の対象でした。

 

そして二男は家を離れます。父親と長男を見捨てて家を出るのです。

 

その貰い受けた財産をお金に換えて遊び使う時、使い続けている時、

彼は幸せでした。

まわりの人々からもチヤホラされたことでしょう。

 

3 二男が苦しみ、悶えるのは無一文になり、食べることが出来ない貧乏人に落魄れた時です。人間が決して食べない豚の餌を食べて生き延びる程の惨めな時がやって来たのです。

しかし、ここで終りではありませんでした。ある明るさに気付きます。

 

考えに、考え、自分の思考が間違っていたという結論に行き着いたのでした。

 

お父さんを単に、お金持ちだと考えていた。

しかし、お父さんはそれ以上かも知れない。家に帰るんだ。

 

続きます

2020-11-15

秋の緑色とコントラスト:

筑紫野市から朝倉街道へ、そして筑前町を抜け、朝倉市の西鉄

甘木駅の近くで温泉へ入って、

帰って着ました。

途中、中牟田の道の駅で見た花です。

2020-11-08

RE: 変わったのは

 

●詩                                 20131    新しい微笑いの詩  手を加え再放送

 

🚦変わったのは

 

🚥プロローグ

知人研究者を励ます

 

  変わったのは、深く考えることの意味です。

深遠さではなく、自分以外の人によく理解されることが、

そしてこのことを産み出すものが、深く考えることです。

 

  明晰さへの持続的な努力が深く考えることです。

 

そしてこの努力から生まれるのが、ある内面的な明るさです。

 

   切手のマニアという言い方をしますが、

明晰さへのマニアが、わたしたちです。

2020-11-03

RE: 時間と魂の存在

 

 

 

 

時間と魂の存在     二回目の続き

 

  前回、ある病気は安定度が高く、健康へと変化しにくい、したがって その病気は

ハビトゥスである、と言いました。

今日は、上の主張へ補足を加えて先に、つまり 健康はどうなのか?を示します。

 

たくさんの病気のなかで、治りにくい、治らない病気が見出されますが、

すべての病気が治りにくい、治らないうわけではありません。

例えば、風邪をひいて熱が引かないので、内科の医者に診てもらう。注射を打ち、適切な風邪薬をもらって家に帰る。で、熱が下がり、喉の痛みが消える。

 

こうした形の治る病気はたくさん有ります。

こうした安定性、安定度の弱い症状の病気を、トマス・アクィナスは状態  dispositio

呼んでいます。

 

それでは、健康はどうか?

 

病気と同じように、安定度が弱い、と考えることが相応しいのか?

したがって、健康は状態である、安定度の高い ハビトゥスではない。多くの人にとって

健康は持続的なものではない、特に高齢者に取って、健康は有り難きことに、幸せに属すると考えられます。

 

  以下、トマスが 健康を単なる状態とは考えていないことの意味を考えてみます。

 

健康が病気と同列に扱えないのは、健康は身体の自然本性  natura  との結びつきを

持っています。

 

トマスはアリストテレスの  ヘクシス(性向と訳される)の意味を更に深めて、

ハビトゥス は自然本性との結び付き(或いは自然本性からの離反)を持つと考えていて、ここ、

身体のハビトゥスについてもこの規定を宛がうわけです。

 

ただ、大切なことに、 健康は身体の natura =nature )との結びつき・秩序 ordo

おいてある、とは このnatura  が健康の原因として把握される、ということです。

 

身体の本性に健康は与かっている、ここが状態として理解される病気とは区別される。

 

  トマス・アクィナスが、健康を単なる状態ではなく、

ずっと持続的な状態( dispositio  habitualis )と呼んでいるのはこの為です。

 

ただ、この言葉は、難しい感じですね。

日本語の他の訳は、習慣的な状態、性向的な状態です。

笑い話になってしまいますが、 habitus dispotionalis (状態的な持続?)という

用法はないです。

 

  色を考えます。

 

赤い色があり、茶色があります。

そして、赤い色と茶色の真ん中に、ワインカラーの色がある理解はどうでしょうか。

2020-11-02

時間と魂の存在

 

 

時間と魂の存在                          二回目

 

前置き

新しい微笑いの詩  20132月に投稿した記事に手を入れた形で再放送するのは、

トマス・アクィナスのハビトゥス(ラテン語が habitus)に関心を持って貰う為です。

 

そしてこれからは、稲垣先生の習慣という訳ではなく、持続(広い意味での安定的な持続と厳密な意味での持続)

という訳を用いて、ハビトゥスについての考察を始めます。

 

今日のタイトル:  dispositio  habitualis  という表現

 

  いま、病気や健康が見出すことが出来る身体というひとの自然本性に眼を向けて、

ハビトゥス の意味に接近しようとしています。Habit や類似したヨーロッパの言葉とは

異質な言葉が  habitusであるので、意図して接近するという表現を用いています註)。

 

身体は行為との連関で言及されることが有りますが、この観点は以下除きます。

 

  ある病気、例えばある種の腫瘍、癌と呼ばれる病気は癒しがたい、変化という視点で話せば、

治りにくい。健康に属する他の状態に変化しにくい。悪い意味での安定度が高く、ずっーと

持続する。つまり、治らない。

もっと言えば、その対立概念である健康へともたらされる可能性が低い。

 

この場合、この病気は ハビトゥス に属すると考えます。

 

 

3 それでは、健康はどうでしょうか?

健康は あるハビトゥスでしょうか、ハビトゥスに属すると考えて良いのでしょうか?

 

たまたま、この記事を読んでいる人間がいて、長い人生の中で病気をした事がないひとであれば、

健康は ハビトゥスである!と諸手を挙げてしまうかも知れません。

 

次の投稿で、トマス・アクィナス が 健康は ハビトゥスではないと考えていることを示します。

 

続く

 

註)habitus は日本では稲垣訳の習慣、そしてアリストテレス  の書物  「カテゴリアイ 」での ギリシャ語、

hexis(ヘクシス)  そのまま訳したように見える 性向がよく知られている。

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大根を簡単に食べる

 

 

煮て食べる、大根おろしを使って大根をすりおろす、他にも有るかも。

 

僕が見つけたのは、100円ショップで見つけた用具を使うことです。

上から大根の大きさを適当に切り、更に1/4にして上から力で押し込む。

 

写真の赤い器具がそうです。

 

その隣りは昨晩、かりん酒に漬けた大根、また器具の後ろは玉ねぎのサラダ

ドレッシングに漬けている大根です。

 

庭に植えている大根は、今年の春は根が浅いものばかしで、

失敗でした(来年収穫のものはとてもいい感じです)。

 

上の写真の大根は市販のものを一本、使い切っています。

朝起きたら、何片かの大根を食べてから、一日の活動を始めます。