時間と魂の存在 二回目
前置き
新しい微笑いの詩 2013年2月に投稿した記事に手を入れた形で再放送するのは、
トマス・アクィナスのハビトゥス(ラテン語が habitus)に関心を持って貰う為です。
そしてこれからは、稲垣先生の習慣という訳ではなく、持続(広い意味での安定的な持続と厳密な意味での持続)
という訳を用いて、ハビトゥスについての考察を始めます。
☔今日のタイトル: dispositio habitualis という表現
1 いま、病気や健康が見出すことが出来る身体というひとの自然本性に眼を向けて、
ハビトゥス の意味に接近しようとしています。Habit や類似したヨーロッパの言葉とは
異質な言葉が habitusであるので、意図して接近するという表現を用いています註)。
身体は行為との連関で言及されることが有りますが、この観点は以下除きます。
2 ある病気、例えばある種の腫瘍、癌と呼ばれる病気は癒しがたい、変化という視点で話せば、
治りにくい。健康に属する他の状態に変化しにくい。悪い意味での安定度が高く、ずっーと
持続する。つまり、治らない。
もっと言えば、その対立概念である健康へともたらされる可能性が低い。
この場合、この病気は ハビトゥス に属すると考えます。
3 それでは、健康はどうでしょうか?
健康は あるハビトゥスでしょうか、ハビトゥスに属すると考えて良いのでしょうか?
たまたま、この記事を読んでいる人間がいて、長い人生の中で病気をした事がないひとであれば、
健康は ハビトゥスである!と諸手を挙げてしまうかも知れません。
次の投稿で、トマス・アクィナス が 健康は ハビトゥスではないと考えていることを示します。
続く
註)habitus は日本では稲垣訳の習慣、そしてアリストテレス の書物 「カテゴリアイ 」での ギリシャ語、
hexis(ヘクシス)を そのまま訳したように見える 性向がよく知られている。
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