時間と魂の存在 三回目
1 自然本性 や 存在 という言葉は解ったことにしないことが肝心なことではないかと思います。
自然本性を眼に見える自然に置き換えてしまう習性、存在とは眼に見える世界を先ず考えてしまう習性、ここから離れることが出来るかどうか、が大切です。
ただ、しかしながら、 distance を取る、と言っても簡単ではないです。
もともとそれ自体的にあるところの natura が外化、実体的なものに変化して、
眼に見えるものとして理解されてしまう。
いつの間にか、自然は周知の言葉になるが、原理的な言葉、自然本性は
忘却されてしまう。
2 そしてまた、存在という言葉も厄介な言葉です。私たちには呪縛が有ります、
眼に見えるものこそ、あるものだ。
聖書の ルカによる福音書の15章で 、ギリシャ語の ousia (存在、実体)が
財産、資産という具体的なものを指す用法が見出されます。
ここ15章11−32のストーリーは、父親に二人の息子が居て、二男の方がまだ
生きている父親に向かって、自分の分け前になる財産を下さいと言う。
そして信じれないことに、父親はそれを許容するのです。生前の財産贈与。
素朴に考えれば、二男にとってのあるとは、当時たくさんの家畜を意味する財産のことでした。お父さんが持っているもの、所有しているものが人生の最大の価値でした。
この限り、父親は信仰の対象、崇拝の対象でした。
そして二男は家を離れます。父親と長男を見捨てて家を出るのです。
その貰い受けた財産をお金に換えて遊び使う時、使い続けている時、
彼は幸せでした。
まわりの人々からもチヤホラされたことでしょう。
3 二男が苦しみ、悶えるのは無一文になり、食べることが出来ない貧乏人に落魄れた時です。人間が決して食べない豚の餌を食べて生き延びる程の惨めな時がやって来たのです。
しかし、ここで終りではありませんでした。ある明るさに気付きます。
考えに、考え、自分の思考が間違っていたという結論に行き着いたのでした。
お父さんを単に、お金持ちだと考えていた。
しかし、お父さんはそれ以上かも知れない。家に帰るんだ。
続きます
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