1 70歳を越えて望みを持って生きている、明日から先の
希望を持っているんだ、と確信的にその笑顔を挙げるひとは居ないのだろう。しかしだ、筆者の私はその希望とその歓びを持っている。死が近い今もだ。
2 どうしたら一体、そんなことが出来るのか?
その可能な考え方とは、自分は舟に乗ってもう岸辺を離れてしまっていると思うことだ。
何処へかって。舟の行き着く所は新しい〈海〉だ。
舟から遠くを振り返ると、岸辺の砂浜に多くの人が見える。皆、希望から離れてただその日の暮らしが精一杯の人間達だ。
人々が小さく見える。
3 日曜日は『枝の主日』だった。
まだ完成していない自分の教会ではなく、春日原市の方にある(高架になったばかりの)西鉄春日原駅から歩いて、約20分かかる光ヶ丘教会へ行く。
若い十時神父が司式する教会だ。
人々の歓呼の声で迎い入れられたイエスは、このミサの中での受難劇では、多くの人の憎悪を受け十字架の苦しみのうちに死んでいく。
私には、出航しようとしたイエスが浜辺の砂浜に引き戻されそこにいた人々に惨殺される姿が浮かんだ。
教会内は神父を180度に囲む形を取り、親しみやすいところだ。比較的に若いひとが多く眼に付いた。
3出航する元の歌は《君と出航しよう》と唄う本当の希望の唄である。歌われる〈 con te partiro 〉のイタリア語の詩の二番の次の箇所が特に素晴らしく、その詩(一部)を記しました。
・・・だが、今ここからさよならをする時が来たのだ
私が見たことも行ったこともない国へ
今貴方と生き、共に旅立とう
船に乗り、海を超えるんだ。そう、既に
過去の海になっているを
貴方と再び生き、貴方と共に旅立とう、
過去になっている海を見捨てて、
共に蘇るのだ。
wmwm:前回の記事で誤りがありましたので、
訂正します。
『時代は変わる』は時代の誤りでした。
謹んで謝ります。
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