1 稲垣先生の変わったところは、トマス・アクィナス
〈1225—1274〉という中世における哲学者(かつ神学者)を
単 に 専攻している、そういう研究者ではなかった。
僕がフッサールHusserl( 1859—1938 )の 『イデーン』と
いう書物でAbschattung (射映と訳す) という知覚の場面を
学部卒論で書いた次の年に、
稲垣先生は名古屋から、 福岡へ移って来られた。
フッサールに倫理的な考察が欠けているから
一生やるもんではないかも、と思案した挙句、j
稲垣先生の来られた次の年に
トマス・アクィナス専攻の学生になった。
2今から思うと、アメリカ合衆国カトリックの
大学に留学された経験があって、それを基に
した発言だったかもしれない。
———中世をやる人は 近世をやらないと
いけない
彼の関心は 理性である、もっといえば自己である。
カントの『純正理性批判』を高く評価なさっていた
(しかしある時批判的な時が有り 、カントの理性は
本当の理性か と疑っておられた)
3そこから経験主義の研究、習慣 habitus 論へと
考察が深まり、そして良き習慣としての徳へと進む。
圧巻は自己認識という理性の完成であろう。
自己に立ち返るという働きにおいて、
われわれは自己が不完全な存在であることを
知る。
それは神の恩寵に与ることの一歩手前に来ているのだ。
4 稲垣良典先生の考えておられることについて、
Youtuveで先生の考えを14回にわたって
観ることが出来ます。
タイトル 稲垣良典先生
稲垣良典 いながき よしのり で検索してください。
0 件のコメント:
コメントを投稿