- 愛を知っている 愛を知らないとは どういう事なのか
1)最初に愛を知っている そしてまた また愛を知らない
とは、大きな語り口では どのような問題なのか。
大きな語り口では、愛とは何か という問題のことだ。
まず、愛とは何か という問題の措定の仕方が
尋常ではないことに気付かねばならない。
何々は 何 か という場合、目に見えるものを念頭に置いて
その目に見えるものとは 何かと問うことは、易しい。
例えば、ソークラテス は色白い において ソークラテス は
何か という問い が出されたとする。直ちにソークラテスを
目で見て、ソークラテスは色白いと述定する。
しかしながら、眼で捕らえ切れない事物に
ついて、それが何であるか を問うことは
容易ではない、つまり困難なことだ。
愛とは何かという問いかけは、まさしくこの種の
問題に属する。
プラトンの 大 とは何かという問題 はこの
地平において問われる、つまり イデア論の
地平とは論理が問題になるのだ。
次からより小さな語り口になる。
2) ここで大切なことは、愛である そのことを
二つに 分けることだ。
分ける という方法は トマス・アクィナスの考察の
複数の方法の中で、一番基本的な考え方だ。
ある言葉を浮かべる、その言葉を 肯定的に 、また否定的に
考えてみる。相反する言葉を提示出来るか。
例えば、信仰と未信仰、希望と絶望。
上手く、思い浮かべることが出来ない場合がある。
例えば、信念の反対は何であろうか。
あなたは信念がない と言う そのものに相当する
観念や概念を見つけること、それは難しい。
1) 愛を知っている 愛を知らないを二つに
分 け る とすればどうなるか。
imperfecta amor と perfecta amor
後者の完 全なと訳される perfecta とは、
愛の存在が充たされて、その終極に
来ていること。
この愛は残念ながら、人間には属さない 。ひとの
手に届かない愛である。
したがって、愛を知っている 愛を知らない の
中で、特に覚醒した意識の支配のもとに
【愛を知らない】と言う場合、この意味での愛は
謙遜さの証である。。
わたしは かつて、この愛を 愛の沈黙 不思議さと
呼んだのだった。
そして逆に、『〈この〉愛を知っている』とはひとが
決して、口にすることが許されないものだ。
何故なら、そのヒトは傲慢な人間だからである。
2) ところが、不 完全な愛imperfeccta amor は
反対に私たち 人間に属する。私たちが、愛と いう言葉を
使う時、普通は この imperfecta な意味での
愛のことを言っている。
愛と言う言葉の親和性はこの不完全な愛の方だ。
すると、人間が知っている不完全な愛と
完全な愛の、二つの愛に向き合って生きているのが
ひとの真実ではないか。
前者の完全な愛はひとの長い人生のなかで、
欠けること・欠落があるのは確かであるが。
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