2020-12-31

年の瀬に考えたこと

 

 

 

 

 

 

1 最近の言葉、急に飛び出して来たように見える言葉に『脱炭素化社会』が

有る。

 

温暖化対策というこれまで好く知られている言葉を更に、絞り込んだ

表現なのだろう。

単純に、脱ガソリン社会を目指す、と言わないまた言えないのが

 

ミソなのでしょうか。

 

エンジンの要らない、電動化した車は、僕が驚いたことに、将来的には、

現在の乗用車の五分の一まで値段が下がる、と昨日の新聞にありました。

 

エンジンで動いている車は、3万もの部品が必要とのこと。

 

ところが、脱炭素化社会の実現は、ガソリンで走る車を造る会社に

籍を置いて働いている多くの技術者、そして部品を供給する会社の技術者、

更には、ガソリンスタンドでガソリンを供給する為に働いているひとに
決定的な犠牲を強いるのでかと思う。

 

自動車産業の裾野は広く、しかも日本の経済の中核を成している、

それでもその枠組みを変える、いや変えなければならない一歩、

手前まで来てしまったということか。

というのは、ドイツや中国、その他の国においてガソリン車を何年からは

造らない、という声が強く叫ばれはじめている。

まるで、日本への包囲網が出来つつある感じだ。

 

2 毎年、夏になる6月から大雨による災害が日常化して、その主な原因が

車の排気ガスであることは疑いようがない。

 

それでも、しかしながら、コロナウイルス肺炎感染症拡大による経済の

落ち込みが持続する最中、日本の経済は厄介な問題をまた、

解決すべきものとして抱えているように考える。

 

お詫びいたします。

8月に使っていたスマートフォンが壊れ、Windows10のメィルからの投稿を

続けています。

キーボードをたたく時、失敗しています。投稿した後に訂正が出来ないようで

失礼しています。

2020-12-30

持続するもの、人柄と人格 (2)

 

3 湯川秀樹の父親の名は小川琢治(たくじ)である、その子三男である                  

秀樹は養子になる前は、小川秀樹と呼ばれていた。

以下はそのままの引用です。

//////////

父琢治は、若いころには、地質調査のために全国を歩きまわったし、          明治三十三年、パリで開かれた万国地質学会議には、三十歳で日本の代表として参加している。

私が知ってからも、仕事には非常に熱心であった。が、そういう学者というものは、とかく子供たちに対して、ある場合には無頓着でありすぎ、ある場合には厳格でありすぎ、子供の目から見れば、                   やさしさに欠けることもないとは言えないないようだ。

🐸00000# 00000000#飛びます🐸🐸🐸🐸🐸🐸🐸🐸🐸

『子供を甘やかしてはいかん』父は、母に向ってよくそう言った。
『そんなことをおっしゃっても、まだ小さいんですから--』
父はしかし、子供が子供らしいことを美徳だとは認めなかったようだ。
【旅人18頁-19頁】

続きます

)角川文庫   旅人   ある物理学者の回想   昭和35

🌌前回の間違い:🌔ノーベル物理学賞賞を受賞した年は1948年

🌒 祖母は母方ではなく、父方でした。

 

FW: 持続するもの、人柄 そして 人格

 

持続するもの、  人柄 そして 人格 ()

 

これからの自分の考察の中心概念となる人格(ひとの人格、法人としての人格)

について、準備的に具体的な形で書き進めています。

 

1 戦後、日本人で初めてノーベル賞を貰った湯川秀樹が書いた自己のエッセイ、

正確には家族を含めた自己評伝の好さは、自己の学問の

深まりについての記述以上に、自己や自己を囲むひとについての洞察が

しっかりしていることだと思う。

 

科学が自己の思いの外に出て行く仕方で真理を追求する、もっと言えば、

それ自体である存在へ向かう。ところがこれとは正反対に、そうした自己とは何なのかを

見極めようとする姿勢が顕著なひとが

湯川さんなのである。

 

2湯川氏の『旅人』註)のなかでの全体の著述は、ノーベル賞を

頂いた後で終わっていて、本全体が何処か謙遜さを備えている。

つまり、受賞後の人生は書かれていない。

そして、ノーベル物理学賞は1953年、約70年前である。

 

彼が自己の性格、人柄 そして 人格について言及する場面は少ない。

 

まだ、小さな時に母親(昭和18年に亡くなる)に東京で最初に住んでいた

お家はどんなものなのだったかを聴く場面。

 

母方の祖母が、自分の能力を認めて『子供たち三人の中で一番

頭の良いのは秀樹じゃろう』と語る場面。

 

3 父親を描く文章が印象的なので、長くなるが『旅人』から

そのまま、引用したい。

続く

2020-12-20

続くとは

続くとは      続きの後半

 

続くのなかの、別のある例は、続くがあると一つになっています。

 

誰々の人柄は大学の時と変わっていない( = 大学の時の人柄が今も続いている)

とは

例えば、昔、おっちょこちょいだったが、いまもそうだ。

 

言葉の不思議さとは言い過ぎでしょうか、私達は

中村さんは おっちょこちょいであり続けている、とは言わない。この代わりに、

中村さんは  おっちょこちょいです と言い切ります。

 

富士山について、富士山はあり続けているとは、言わないのです。ただ、

単純に 富士山はある、そしてまた美しい  等々 というのです。

 

 

それでは、残っている例の  肩の痛みが消えない (今も痛みが続いている)は

どの様に理解したら良いのでしょうか。

 

続く

 

 

 

FW: 冬咲く明るい花 (1)

黄色とピンク色の右側に丸い球形の

緑色が見えますか。春先の緑色と

勘違いしそうに鮮やかです。

2020-12-13

続くとは

 

続くとは      続きの前半

 

続くという言葉は二つのタイプに分けて、考えることが出来るのではないか。

 

雷が鳴り続く

病院の建設工事が続く

会社の株式の上場が続く、とは何々が続くという言い方の

何に当たる部分がその終点、終着点に着たら、続くが終わる。

 

そして、それと同時に、その主体部分が消える。

 

雷がなくなる、工事がなくなる、上場しない会社になる。

 

 

 

これに対して、続く、その終わり な い という構造とは

異なる 続く、そして あ る という構造の続くがあるのでは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2020-12-12

公共の福祉

 

公共の福祉     来年も底流となるべき思考

 

憲法と言えば、憲法を改正しろ や 平和憲法を守れが相場なのでしょうか。

声高に主張されるべきことがあるのでは。

 

』』』『『『『『『『  『『『『『『『『『『『『『『『『『『『『『『『

 

自分のいのちを守れ、それが憲法の言う公共の福祉なのだ。

コロナウイルスにかかるな、それが公共の福祉だ。

 

自分のいのちを守れ、それだけで、周りが明るくなる。

 

手を洗え、マスクをつけろ、それがひとを大切にすることだ。

 

よく食べて

よく寝る、それが公共の福祉だ。

2020-12-11

FW: 変な枯れ葉

 

 

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FW: イエス キリストの降誕

 

 

上の写真は北九州市小倉カトリック教会入口に見出されます馬小屋、

イエスキリストの御降誕の馬小屋です。

 

小倉駅からモノレールで、平和道り、旦過そして香春三萩野、

ここから、歩いて直ぐです。モノレールを右上に見ながら歩く。

 

由緒あるカトリック教会です。

 

 

 

 

 

2020-12-06

続くとは

続くとは            持続の意味を明晰に する                20148月日投稿記事 に手を加えて再放送

 

1 大学に居た時、中学生の家庭教師をしたことが有りました。

 

その男の子に『遠いとはどういう事か』と、尋ねたことがあります。

すると、彼は眼を白黒させただけでした。変なことを聞かないで。

 

続くとはどのようなことか、と問う時も、同じ様な当惑が起こり、そして結局、

続くとは何かが続くことさ、と言って、そこで終わりかも知れません。

 

 

  そこでまず、『何が続くのか』に焦点を絞った話を考えました。

 

私たちは、日々、よく何らかのものが続く、という言葉の使用に出会いますが、その経験主義的な使用法に

眼を凝らしてみましょう。

 

以下の用例は、続くと極めて類似した言葉の世界へ開かれたものです。

 

例えば、

先週、雷が15分程、鳴り続けた

病院の建設工事は、まだ継続中だ

あの会社は設立以来、上場を維持している

中村氏の人柄は大学の時とあまり、変わらない

まだ、左肩の痛みが消えない

 

3 これらの例の分析から出て来る洞察が有ります。

 

それは、『  続く 』には二つの意味があるのではないか。

 

続けます

2020-12-05

FW: 時間 と 魂の存在

 

 

 

 

時間と魂の存在      三回目の続き  その後半

 

  私は 実は、ルカによる福音書 15 11節からのイエスの話しのタイトルに

見出される『放蕩息子』という全体の構図を定めてしまいかねない表現を好みません。

教会に通っているキリスト教信者の多くは、自分と関係ない話だと思い、上からの視線で

主人公の二男を自分たちから離れた存在としか観ないかも、と考えるからです。

 

キリストの教えから離れて生きているひとが、あるキリスト教信者に敬虔な、と

いう形容詞を貼り付ける、しかし、自分とは関係ない離れた彼岸の世界だと考えるのと

似ています(何とか生きのびている現在の自分に、遠い言葉が 実は 敬 虔 です)

 

2 大切なことは、二男を自分と同じ様な人間であると観れるか、どうかだと考えます。

 

男は追い詰められて、何もない、多くのブタだけが居る。

ところが、ただの孤独の世界に唯一、残されていた「 考えるちから 」とそこから紡ぎ出された

「言葉」が何と男を浄化したのでした。

 

     お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。

もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にして下さい。

 

3 家に向けて出発した息子を待っていたのは、父の愛情でした。何の連絡も入れず、帰宅の情報を与えていなかったのに、

 

  まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて哀れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した(20)

 

とあります。

 

父は息子が考えていたように、単なる財産の持ち主ではなかったのです。価値あるものの所有者ではなく、「持つ」を超えた、つまり、Ousia【ある】を実現していたひとだったのです。

 

  面白いのが、二男を迎え入れる事を耐えがたきこととして、家に入れることを拒絶した長男の存在です。

 

長男はお父さんを、二男が最初考えていたように、財産 ousia 、富の所有者だと考えているのです。

家の財産を無駄遣いして帰って来た二男を、何故家に入れなければならないのだ。

 

この論理的に正しい長男の主張は、わたし達の考えでもあります。

あるとは富を持つことだ、そして、富を持つひとがあるひとだ。お父さんはまさしくこのひとなのだ。

 

二男の360度回転した思考の転換、あると思われるものから真にあるものへの視線変更と

コントラストを成す長男の旧態依然?の考え方。

 

改心した二男の、わたしは『 罪を犯しました 』は あ る に関して洞察の大変換だったのです。

2020-11-29

時間 と 魂の存在 三回目の続き

 

 

時間と魂の存在              三回目の続きの前半

 

前置き:   書き出して、次に投稿します。 何か間違ったことを

言ってないか、自分の記事に眼を通す。

それを自虐的な感じで繰り返す日々ですが、

              時間と魂の存在とういうタイトルを観て、 《 と 》 の意味が

分からない、曖昧かも、と考え始めました。

 

時間と、言い出すとき 二つの仕方で時間を考えなければ

ならない。

量的な意味での時間 と 質的な意味での時間。

 

そして、わたしたちが慣れ親しんでいるのは、

量的な時間です。

単純に流れて行くものです。

 

この立場に立つ限り、魂の存在という表現は必ずしも、

続いて出て来る必要がない。

 

ただ時間が数えられることにおいて存在する、この限りでは

数えるところの主体としての魂の存在はある意味を

持つことが出来ます。

 

 

ところが、ここで特に、時間と魂の存在という表現とは

質的な意味を持つ時間と(この時間における) 魂の存在のことです。

 

問題は、この時間と魂の存在との結び付きです。以下、

魂の存在を厳密な仕方で理解される魂の善悪として考え、

             質的な意味での時間と魂の善悪が如何なる仕方で

結び付けられるのか、を考えるつもりです。

 

              そしてその手掛かりになる概念が  ハビトゥスとdispositio  です。

 

今日は、前置きが長くなりました。これだけで終わります。

 

続きます

秋の緑色 と コントラスト: 続けています

 

 

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FW:

秋の緑色 と コントラスト        続けています

2020-11-22

FW: 時間 と 魂の存在 考察の方向をみる

 

 

時間と魂の存在           三回目

 

 

1 自然本性 や 存在 という言葉は解ったことにしないことが肝心なことではないかと思います。

 

自然本性を眼に見える自然に置き換えてしまう習性、存在とは眼に見える世界を先ず考えてしまう習性、ここから離れることが出来るかどうか、が大切です。

ただ、しかしながら、 distance を取る、と言っても簡単ではないです。

 

もともとそれ自体的にあるところの natura が外化、実体的なものに変化して、

眼に見えるものとして理解されてしまう。

いつの間にか、自然は周知の言葉になるが、原理的な言葉、自然本性は

忘却されてしまう。

 

 

2 そしてまた、存在という言葉も厄介な言葉です。私たちには呪縛が有ります、

眼に見えるものこそ、あるものだ。

 

聖書の ルカによる福音書の15章で 、ギリシャ語の ousia (存在、実体)が

財産、資産という具体的なものを指す用法が見出されます。

 

ここ151132のストーリーは、父親に二人の息子が居て、二男の方がまだ

生きている父親に向かって、自分の分け前になる財産を下さいと言う。

そして信じれないことに、父親はそれを許容するのです。生前の財産贈与。

 

素朴に考えれば、二男にとってのあるとは、当時たくさんの家畜を意味する財産のことでした。お父さんが持っているもの、所有しているものが人生の最大の価値でした。

この限り、父親は信仰の対象、崇拝の対象でした。

 

そして二男は家を離れます。父親と長男を見捨てて家を出るのです。

 

その貰い受けた財産をお金に換えて遊び使う時、使い続けている時、

彼は幸せでした。

まわりの人々からもチヤホラされたことでしょう。

 

3 二男が苦しみ、悶えるのは無一文になり、食べることが出来ない貧乏人に落魄れた時です。人間が決して食べない豚の餌を食べて生き延びる程の惨めな時がやって来たのです。

しかし、ここで終りではありませんでした。ある明るさに気付きます。

 

考えに、考え、自分の思考が間違っていたという結論に行き着いたのでした。

 

お父さんを単に、お金持ちだと考えていた。

しかし、お父さんはそれ以上かも知れない。家に帰るんだ。

 

続きます

2020-11-15

秋の緑色とコントラスト:

筑紫野市から朝倉街道へ、そして筑前町を抜け、朝倉市の西鉄

甘木駅の近くで温泉へ入って、

帰って着ました。

途中、中牟田の道の駅で見た花です。

2020-11-08

RE: 変わったのは

 

●詩                                 20131    新しい微笑いの詩  手を加え再放送

 

🚦変わったのは

 

🚥プロローグ

知人研究者を励ます

 

  変わったのは、深く考えることの意味です。

深遠さではなく、自分以外の人によく理解されることが、

そしてこのことを産み出すものが、深く考えることです。

 

  明晰さへの持続的な努力が深く考えることです。

 

そしてこの努力から生まれるのが、ある内面的な明るさです。

 

   切手のマニアという言い方をしますが、

明晰さへのマニアが、わたしたちです。

2020-11-03

RE: 時間と魂の存在

 

 

 

 

時間と魂の存在     二回目の続き

 

  前回、ある病気は安定度が高く、健康へと変化しにくい、したがって その病気は

ハビトゥスである、と言いました。

今日は、上の主張へ補足を加えて先に、つまり 健康はどうなのか?を示します。

 

たくさんの病気のなかで、治りにくい、治らない病気が見出されますが、

すべての病気が治りにくい、治らないうわけではありません。

例えば、風邪をひいて熱が引かないので、内科の医者に診てもらう。注射を打ち、適切な風邪薬をもらって家に帰る。で、熱が下がり、喉の痛みが消える。

 

こうした形の治る病気はたくさん有ります。

こうした安定性、安定度の弱い症状の病気を、トマス・アクィナスは状態  dispositio

呼んでいます。

 

それでは、健康はどうか?

 

病気と同じように、安定度が弱い、と考えることが相応しいのか?

したがって、健康は状態である、安定度の高い ハビトゥスではない。多くの人にとって

健康は持続的なものではない、特に高齢者に取って、健康は有り難きことに、幸せに属すると考えられます。

 

  以下、トマスが 健康を単なる状態とは考えていないことの意味を考えてみます。

 

健康が病気と同列に扱えないのは、健康は身体の自然本性  natura  との結びつきを

持っています。

 

トマスはアリストテレスの  ヘクシス(性向と訳される)の意味を更に深めて、

ハビトゥス は自然本性との結び付き(或いは自然本性からの離反)を持つと考えていて、ここ、

身体のハビトゥスについてもこの規定を宛がうわけです。

 

ただ、大切なことに、 健康は身体の natura =nature )との結びつき・秩序 ordo

おいてある、とは このnatura  が健康の原因として把握される、ということです。

 

身体の本性に健康は与かっている、ここが状態として理解される病気とは区別される。

 

  トマス・アクィナスが、健康を単なる状態ではなく、

ずっと持続的な状態( dispositio  habitualis )と呼んでいるのはこの為です。

 

ただ、この言葉は、難しい感じですね。

日本語の他の訳は、習慣的な状態、性向的な状態です。

笑い話になってしまいますが、 habitus dispotionalis (状態的な持続?)という

用法はないです。

 

  色を考えます。

 

赤い色があり、茶色があります。

そして、赤い色と茶色の真ん中に、ワインカラーの色がある理解はどうでしょうか。

2020-11-02

時間と魂の存在

 

 

時間と魂の存在                          二回目

 

前置き

新しい微笑いの詩  20132月に投稿した記事に手を入れた形で再放送するのは、

トマス・アクィナスのハビトゥス(ラテン語が habitus)に関心を持って貰う為です。

 

そしてこれからは、稲垣先生の習慣という訳ではなく、持続(広い意味での安定的な持続と厳密な意味での持続)

という訳を用いて、ハビトゥスについての考察を始めます。

 

今日のタイトル:  dispositio  habitualis  という表現

 

  いま、病気や健康が見出すことが出来る身体というひとの自然本性に眼を向けて、

ハビトゥス の意味に接近しようとしています。Habit や類似したヨーロッパの言葉とは

異質な言葉が  habitusであるので、意図して接近するという表現を用いています註)。

 

身体は行為との連関で言及されることが有りますが、この観点は以下除きます。

 

  ある病気、例えばある種の腫瘍、癌と呼ばれる病気は癒しがたい、変化という視点で話せば、

治りにくい。健康に属する他の状態に変化しにくい。悪い意味での安定度が高く、ずっーと

持続する。つまり、治らない。

もっと言えば、その対立概念である健康へともたらされる可能性が低い。

 

この場合、この病気は ハビトゥス に属すると考えます。

 

 

3 それでは、健康はどうでしょうか?

健康は あるハビトゥスでしょうか、ハビトゥスに属すると考えて良いのでしょうか?

 

たまたま、この記事を読んでいる人間がいて、長い人生の中で病気をした事がないひとであれば、

健康は ハビトゥスである!と諸手を挙げてしまうかも知れません。

 

次の投稿で、トマス・アクィナス が 健康は ハビトゥスではないと考えていることを示します。

 

続く

 

註)habitus は日本では稲垣訳の習慣、そしてアリストテレス  の書物  「カテゴリアイ 」での ギリシャ語、

hexis(ヘクシス)  そのまま訳したように見える 性向がよく知られている。

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大根を簡単に食べる

 

 

煮て食べる、大根おろしを使って大根をすりおろす、他にも有るかも。

 

僕が見つけたのは、100円ショップで見つけた用具を使うことです。

上から大根の大きさを適当に切り、更に1/4にして上から力で押し込む。

 

写真の赤い器具がそうです。

 

その隣りは昨晩、かりん酒に漬けた大根、また器具の後ろは玉ねぎのサラダ

ドレッシングに漬けている大根です。

 

庭に植えている大根は、今年の春は根が浅いものばかしで、

失敗でした(来年収穫のものはとてもいい感じです)。

 

上の写真の大根は市販のものを一本、使い切っています。

朝起きたら、何片かの大根を食べてから、一日の活動を始めます。

2020-10-31

何々州がない!

 

先週25日土曜日に読んだ全国紙一面、左側面に「民主主義問う10日間」という大きな見出しが出ていました。

そして、アメリカ合衆国主要激戦区での、トランプ氏の支持率と

バイデン氏の支持率を並べて予想していました。

 

それで、何故、投稿したのか?

 

よく見てください。

 

おかしい所に気付きません?

 

フロリダ州、テキサス州そして何々州は、アメリカ合衆国大統領

選挙において宛がわれている選挙人の数が多いエリアです。

 

選挙人の総数は538人です。この過半数の270を取った候補が

勝ち、総投票数の数は無関係です。

 

先日、トランプ氏が投票したフロリダ州(僕はああ、ハリケーンが通るとこか! 位の知識しかない)で負けたら、危ない(=大統領選挙で負ける)と、

NHKの朝六時のニュウスのが言ってました。

 

11月の選挙が終わったら、上の支持率が本当か、どうかが判明します。

WIN_20201031_12_29_32_Pro.jpg

例のもみの木です。もみの木の寄生?をハッキリさせる為、

周りの部分を切り落しました。

 

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時間と魂の存在 一回目の続き

 

 

🌏 保存した、と思っていたら、投稿になっていた。 腹這いになって、文字を打っていたからか(いや、アルツハイマーのせい?)。

今は椅子に座って投稿をしています。

 

前回の記事の残りをお読み下さい。

 

 

&&&&&&&&&&⁅&&&&&&&&&&&&

 

  後者に関して補足します。

 

理性と感性を区別します。

 

この区別は解かりきったようにみえます、特に現代社会で生きている人間には。

 

解かりにくくなるのは、想像  imagination     という概念を持ち出し、

理性と想像は何処で区別されるのか? また 想像と感性は何処で区別されるか、を

かんがえはじめることです。

 

2 具体的に話を進めますと、

今、眼が失明しているひとがいると仮定します。 すると、そのひとにとっての、

理性と想像の違いをどのように考えたら良いのか。

 

理性の意味をその働きの視座から明らかにします。

すると、計算することがまず、浮びます。ひとが外に食べに行き、勘定します。

高いと安いの判断が起ります。 Reason から来る reasonable が 安い cheap

意味で使われているのは面白いかも知れません。

 

ところが、ここで、想像力という想像の働きはどう関与しているか?

 

さらに、推理するという理性の働きに眼を向けて下さい。

推理する時に、想像のちからが入いっててくるのではないか?  もっと

強く言えば、想像のちから無しに推理が有るのか。

 

失明して生きている人間には、特に見るちからは失われていると

考えられますが、想像のちからが支配的な仕方で推理するのか。

 

3 これからのわたしの考察の仕方は、これまでの投稿のなかで一貫して

来ている手法を用いる遣り方です。

つまり、何かを考える時、二つに別けろ、です。

 

感覚という働きがある。想像力という働きがある。理性の働きがある。

 

感覚の働きを二つに別けろ。

想像力を二つに別けろ。

理性の働きも二つに別けろ註)。

 

考察を続けます。

 

 

註)

後でしか、触れませんが大きくは、いわゆる理性の働き(観想的、実践的な

理性)と、意志の働きの二つがある。

さしあたり、上の記事のなかでは、想像力を二つに別け

理性的な意味での想像力と感覚的な想像力を考えています。

時間と魂の存在 一回目

 

これまで提示して来たことの、より基礎的な考察を始めます。

時間論を貫く記憶そして想起の概念をより明晰にする仕事に入ります。

 

この明晰化の仕事の柱は、トマス・アクィナスの habitus という言葉の明晰化と

わたしたちにおいて見出すことが出来る理性の概念の明晰化です。

この二本です。

 

後者に関して補足します。

理性を、感性と

2020-10-24

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左側に見えるのが何とかとモミの木(ほんとに一部分的な )。

 

今も、その何とかの名が出て来ない。

 

妻に聴いたら、忘れた。二人ともーーーかも。

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秋の緑色とコントラスト

 

葉っぱの中を走る白い線に眼が行って、撮りました。

 

補足

 

稀有な存在への補足です。

 

註)を付けるのを忘れていました。

自分もアルツハイマー病の初期段階ではないかと思います

(本当は中期に入っている?   日記の積もりでブログ投稿を続けているが、

     書くことが呆け防止に成ることを期待している?、70過ぎて投稿を

     している人はだいたいそうかも知れません)

 

アウグスティヌスは、山田晶教授の訳で知られる「告白」の八巻での悪戦苦闘を

考えています。自己における性欲過剰的な鳥もちの世界から逃げ出そうとして

教会に行こうとするが、うまくいかない。

(神を求めているのに、自分は神から見棄てられている?   どうしたらよいのだ!

途がないとしたら)

 

自己を持ち続ける、自己を存在するものとして 持 続 し づけるにんげん に

成るそのことで悪戦苦闘したアウグスティヌス!。

アウグスティヌスは実は私たち近代人間の祖先です。性欲過剰な人間でないとしても、似たような欲望過剰が近代と現代を支配しているのは疑えないと考えています。

2020-10-23

考えることは考えることですか ぷろぐ再放送 平成13年1月

プロローグ:考えることは考えることに決まっているじゃないか。何バカなことを

                      言っている?

                                       でも、解り切ったことにしてませんか?

考えることを。

     

                  考えることは自明なことでは有りません。

                       何十年も経って、考えることの奥深さに覚醒する時に、

                      其れまでとは違った人生、明るい生が始まるのです 。

 

👩🦰  躰を使わないで、頭だけを使うことが  考えることですか?

👴  いえいえ、そうではありません。

 

👩🦰あたまの中で、グルグル回ることが  考えることですか?

👴いえいえ、 そうするではありません。

 

 

👩🦰  それでは 自分の頭の中で、もう一人の自分と お 話することが

考えることですか?

👴その通りです。

 

でも まだまだ足りません

 

 

👩🦰   先生、疲れました。何が考えることですか?

  一体?

 

🎅     急がなくてもいいです。

牛は、草を食べて押し込んだ胃袋から、また咀嚼します。

貴方も牛に成ってみたら?

👩🦳 もおうーおう。

2020-10-19

♪♪ 稀有な存在♪♪

1 どこの家にも有るような目隠しの木、壁となる木が家の南西の隅に5m程ある。

深緑で、成長が早いほうか?

ところが、その木(名前が出てこない)の枝の根元から

モミの木が生えていることに気付いた、約一年程前である。

 

最近、小郡市の住宅街で同じような現象、もみの木を見つけて、これは稀有では

ないかも?と想うようになった。

 

  稀有な存在といえば、稲垣良典先生ほど稀有な存在は居ないかも知れないと。

 

アウグスティヌス、アンセルムスそしてトマス・アクィナスと連なる山脈 註)———の中で、古代ギリシャの哲学思想の後にやって来る中世の哲学思想の研究者のひとりなのであるが、変わっていることに、

中世をやるひとは、近代の勉強をしないといけないと仰っている。

 

具体的な話をすれば、経験の意味を考えないといけない。哲学思想の分野に

足を踏み入れるひとは、経験やその担い手の魂の働きの意味を考えないといけない。昔は、批判的であったイマヌエル カントを最近は高く評価なさる、———

 

カントの理性は<本当の理性か?>

 

良く勉強しているわけではないので、まだ、調べる必要があるが、日本の中世哲学思想の研究は、経験概念を大切にして山に登っていない。

 

3 稲垣先生の稀有なところは、経験や知性、理性とは何かを、どれ程のものかを徹底して考える点にあるのだろう。

 

 

分かり易く言えば、自己とは何か、をわたしはまだ知らない。

 

だから、自己とは何かを探求している。それも、一生を掛けて。

 

4 更にである。

経験と言えば、知覚や行為に眼が行く。こうした一過性、一回だけの経験を超えた経験、トマス・アクィナスのhabitus で表わされる安定的な習慣、

持続的な習慣こそが『経験の経験』として重要だ。

 

5 そして、理性に関しても、その拡がりは自己の認識まで及ぶ。

 

行き着く所が、自己が「欠けていることの把握」において、意志の次元の

理性へ考察が高まる所だろう。

 

近代人が忘れている善とは何か、を考える視座を確保しているおられるのだ。

確かに我々が慣れ親しんだ効用と効率の世界もある何らかの善なのだけれど。

2020-10-11

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これまで      これから

1 物事を経験主義的に考える。この反対は、物事を観念的に考える。

で、ぼくは観念的に考える人、また観念的に生きている人を毛嫌いしている。何故か?

 

経験主義的に考える、この何処がいいのか?

経験主義的に考える、このことから直ちに何らかのリアリティに届く、とは考えられない。ただ、

自分の目を通して、また自分の知性や意志の発動を含めた意味での理性的に魂の働きを行使することは、

失敗に終わる確率が高くても 次に進むステップを創る。

 

リアリティへと向かう準備をしている。だから、自分は経験主義的に考える人間だと思っていても、

誤りに気付き、その誤りの原因を洞察する方向性をまだ、持たないのであれば、まだ未熟な

経験主義に過ぎない。

優れた意味の経験主義は、全体への志向性を持っている。

 

2 これに対して、物事を観念的に考えることの悪い点は、自分の立っている世界や環境の変化を顧慮しないで、獲得している知識を

ただあてがう(もしも、世界や環境の変化を重視する仕方で知識をあてがうのであれば、観念的に考えるにはならない)。

頭でっかち、自己の過去のデータを中心においてしか判断が下せない、新しい状況にある全体を見ようとしない。

 

3 そうは言っても、ぼくは何を言っているのか?

 

例えば、会社で働いているひとは、多くの場合、上司を持っていて、必ずある指示や命令のなかで生きている。

上司が具体的にこうして呉れという時、直ぐに、その発言背景を想定出来るか。

上司はただ彼の個人的な視点で指示を出している、イヤ、正反対に上司は会社全体の意思として指示を出している。

 

このどちらかを経験主義的に考えるちからを持つようにならないと恐らく、会社では生きていけない。

 

4 時間という題で、記憶に焦点を当ててみた。

自分のある、とは何らかの形をした記憶の存在に依る。それも、持続という性格を持つ記憶、

例えば、過去の経験の記憶、そしてこれまでの制度的なものの記憶。

 

更に、上の二つの根底に見出される文化の記憶。

 

これからもう少し、基礎的な考察に入りたいと考える。

 

2020-08-01

雨のない国に行きたい ○ブログ再放送 14年8月20日


🗻🗻

 ◆プロローグのプロローグ◆
 やっと晴れた日が始まり、夏の暑さが始まるみたいですね。

 今から六年前、2014年の八月は雨ばかしでした。
 広島県安佐地区の造成地で、山崩れに依る土砂流出の恐ろしい事が
 起こりました。

    ◆◆プロローグ◆◆
    八月に入って一日中、
    晴れていた日はほとんどありません。
    これは災い・天災なのでしょうか。

    古代ギリシャの悲劇、オイデプスのような世界に居るのか!と
    思います(そこでは反対に、ずっーと雨が一滴も降らない)。
    
 

   □詩 雨のない国に行きたい

 ■■ 雨のない国に行って、遠く地平線の見える砂浜を裸足で
    歩き続けたい。

    湿気のない、乾いた風が吹く国に行って、
    思い切り昼寝をしたい。

    そして深夜、ザーッと言う豪雨の音に目が覚めてしまう
    生活から離れてしまいたい。

    何処何処が100mmの大雨になります、という放送は 
    もう聴きたくない。


    ねーねー。
    ぼくたちが生まれる敗戦の前に、
    多くの日本人が苦しんだ空からのB29の爆撃と
    どこが違うのだろうか?

😂😂




2020-07-26

articulationー日本語の文化を考えるー時間と時 十回目

🍵

1 articulationという言葉は、普通、分節化と訳しますが、イメィジとしては、言葉を
紡ぐ、言葉が紡がれる世界を想像出来たら良いです。

articulus(英語で article)はラテン語で、或る場合項と訳しますが、
言葉の分節化のプロセスの中で出て来る言葉です。つまり、第一項、第二項、
第三項ーーーーーー註1)。

2 ヒトが言葉を話す、言葉を紡ぎ出す時に大切なことは、ある言葉、あるセンテンスと
次の言葉との間をどれだけ、離すことが出来るかです。

言葉が先へ、先へと流れる全体的な視点のなかでは、英語の and だけではいけない。
but が使える時に言葉を離すことが可能になります。前のセンテンスと今の新しい
センテンスが、「紡ぎ出される亅そのことが意味充実してくるのです。


3 文化と言う事で、いま日本という国の文化を考えています。具体的には、
他の国と日本を分かつことが出来る、そうした日本の固有な文化を見つけようと
しています。

今日は、日本語が日本とそれ以外の国を分かつことの意味を考えてみます。

いま、歴史の視座で日本語を考えてみますと、上で語っています言葉を
紡ぎ出すことがまだ、うまく行かなかった時代が有ります。

言葉を話すことは出来ても、それを書くことがなかった時代です。
即ち、書くことの前提である文字、日本語がなかった時代です。

ひとは言葉を話す相手、指導者の言葉を聴いたら、ひたすら、
その語られた言葉を口に出して、何回も暗唱する。記憶が、
こうした暗唱行為に依ってのみ保たれる。

想像力の豊かなわたしは、その時代、ヒトの耳が文字を持つようになった
古の人々また現代人よりも大きかった(勿論ウサギの耳までは大きくない)、
また語る所のヒトの口もより大きかった、と観ます。
 
4 中国の大陸から、中国語の文字、漢字が日本に入って来て、
ヒトは初めて、話すという言葉の紡ぎ方だけでなく、文字を用いて
言葉を書くことに依る言葉の紡ぎ出し方(そしてまた、読むという行為)が
始まります。

文字、書くことが日本独特の変容をその後遂げますが、にもかかわらず
日本人が書くことが出来るのは、当時の中国のお陰であり、書くことの師に
当たります。

理性的と言う言葉を使うなら、話すと書くという二つの重層的な行為に依って、
ひとは前より、リアリティにより深く与り、より理性的な人間に成ったと
考えられます。また、断然深まったのが、日本人の『記憶力』だと観られます。

更に補足すれば、書く行為、読む行為に付帯する言葉、記録、編集、日記、書類等々が、
日常的な身近な言葉になって行きます。
また、仕事として書く係(=物書き)が職業として出て来ます。


書くことの視座で日本語が把握される時に、日本の新しい歴史が
始まったと考えられます。

私達にとって周知の「万葉仮名」、「大和言葉」と言う日本語の成立は、
実は、新しい日本人の創造に深く関わっていたのです。


註)トマス アクィナスの事を考えていて、この意味での
articulus の先に『信仰箇条( articulus fidei)』があるのが
面白いです。
神への信仰が短くなった言葉、信仰箇条で言い表されるのです。

🐼🐼

2020-07-19

文化背景の理解を深める  時間と時  九回目

🗻🗻
1今日のエッセイの論点は、国のある文化、しかもその国に固有な文化を理解する時に
大切なことがあります、と言うものです。

その一つが、その文化の歴史的な背景を押さえるという事です。

2 日本史の中で太刀・刀が現れますが、つくづく、歴史小説をものにする作家は
刀について、また付随することに、ある剣道創立者の何何流派の流れを時間を
かけて勉強しなければならない、と考えます。
また、日本の刀はヨーロッパの sword と呼ばれる剣とは区別されます。


3 以下の記述は、去る四月に北九州市立小倉城庭園で開かれる筈であった
催物を紹介するパンフレットの出だしの部分を紹介したものです(新型
コロナウィルス肺炎流行の為に中止になりました)。

その催物のパンフレットのタイトルは、「現代の名工たちによる刀の世界」です。
補足的ですが、このパンフレットはお金を掛けられている様に見え、
4月19日から6月21日までの開催中止は残念な事でした。

ーーーーーーーーーーーーーーー

そのまま行きます。

4 日本刀は、古来より災いや邪気を払う神聖なものとして扱われてきました。
武士の時代に入ると、争いの道具として刀が使われるようになり、その需要が
高まるにつれ、刀匠の数も増えていきました。

しかし、泰平の世を迎えた江戸時代には、刀の需要が減り、
刀匠と呼ばれる人たちも減少していきました。

明治時代以降、刀は実用品ではなく美術品として鑑賞され、国内外で人気を集めるようになり、現代に至ります。
日本刀の製作技術は千年以上の歴史があり、これらの技は現代の刀匠たちにも
受け継がれ、新しい時代の刀剣を生み出し続けているのです。

ーーーーーーーーーーーーー紹介終わりーー

🐰🐰

2020-07-06

緑色とのコントラスト(3)

今年初めて、メロンに挑戦しました。

西瓜は四つの苗を植えましたが、
まだ1個だけ(ゴルフボールよりも小さい)しか
実を着けていないのに、
メロンは一つの苗から3個も実を着けています。

メロンより西瓜の方がよりデリケートな果物?

ちぢめるの成功       時間と時 八回目

🗻

1 1853年にアメリカのペリー提督が黒船に乗って日本、浦和沖に現れ、
当時の江戸幕府に開国を迫ります(アメリカにはグローバルな視点があり、
中国大陸へ行く途中で水の補給の為の寄港先が必要でした)。

石炭を燃やして蒸気のちからで動く黒船を、日本人が見たのは初めてで、
驚愕の出来事でした。

それから19年後、1872年(明治五年)に蒸気機関車が初めて、東京新橋ー横浜間27Kmを
走ります。イギリスの技術で作られたのです。
所要時間は1時間でした。徒歩であれば、約7時間掛かる距離でした。

2 この段階では、それでもまだ、前回の記事で言及している
い)距離をちぢめるのレベルです。。

ところが、日本の鉄道は1872年の新橋と横浜間の開通後、1889年に
東京、名古屋、京都、大阪そして神戸へと拡大、拡張します。
更に1891年には北海道から九州までの鉄道が敷設完備されてしまいます。

3 日本全国という視点から考えますと、ただ単に鉄道網の完備による距離の
縮小と言うより、精神的な意味での日本の国土の縮小です。これまで、遠かった所が
遠いようには見えない。


しかし本質的な点に眼を向けるなら、それは、ヒトが首都東京へと自由に行ける体制が
出来た事です。ヒトとおカネが東京に集まり、東京を中心にした経済体制が強化されます。

歌人の正岡子規が四国の自分の旧藩から上京を希望し、それが叶うと
三度、万歳したと言われますが、
幕藩体制の下では、その藩から抜け出ることは困難なことでした。

明治維新後も人々の精神的な部分は幕藩体制の封建的な思想を引きづっていて、
こころの近代化を推し進めることは難しいことでした。

200あった藩(国)が廃藩置県で、東京の明治政府を中心にした体制に変わりますが、
近代化した人間の本質的な側面である、個人主義という視点が
鉄道敷設という技術のちからで生まれたのはいくら強調しても、
強調し過ぎることはないと思います。

結果的に、近代化した西欧諸国やアメリカの植民地支配から
日本の独立を守る事が出来たのです。

この鉄道網の完備の中、1889年に近代国家の象徴である憲法が発布されます註)。

註)上の考察の全体は、竹村公太郎氏の「日本史の謎は地形で解ける亅
三部作(PHP出版)に依っています。三冊のうち、特に文明編のニ章を参照。

2020-06-28

緑色とのコントラスト(2)


   鉄砲ユリは、攻撃的な雰囲気が
  気に入っています。




ちぢめるから出て来る文化  時間と時  七回目

🐸

1 ちぢめるの意味を考えますと、何をちぢめるかで、いくつかの意味を
考える事が出来ます。

そして、ちぢめる対象に視線を向けます。すると、次の場面が考えられます。

あ)ものをちぢめるから、盆栽や生花等々の行為が浮かんで来ます。
い)縮小と言い変えてみますと、ひとやものとの間の距離を縮小する行為。

 
う)この距離をちぢめることを精神のレベルで考えますと、
  特にひとに対する(限られた仕方での)気遣い。

え)このう)での気遣いがネガティブに現われる場面


2 以下、う)とえ)を考えてみました。

 だいぶ前、太宰府天満宮の参道の天満宮寄りにあるお店が改修工事を
していました。その工事の足場を作る為に、トラックに積んである
丸い鉄パイプを屋根に登っている職人に投げる場面に
出くわしたのですが、3m程離れてある空間へ投げては
受け取る行為を繰り返します。
一回の失敗もなく、受け手の手に収まって行きます。

恐らく、お互いが相手の人柄や性格を熟知しているからこそ出来るのでしょう。
通りかかっていた東南アジアの若い男女何人かが一斉に拍手したのを覚えています。
生れて初めて観る光景だったのでしょう。

こうした鉄パイプを上の方に投げてはそれを受け取る行為は、日本人だけしか
出来ないのではないでしょうか。

3 今度は、魂同士がある仕方で触れ合っているから、精神的なちぢめるが
否定的な仕方で現われる場合を考えてみます。

知り合いの他者から何かを言われる(相手の顔を見たら何を考えているか判る)。

そしてはっきり、NO!と言うべきなのに言わない。相手の主張を
断わったら、ーーー と(変に)気遣ってしまう。

そして、後になって、もっと気まずいことが起こる(挙げ句の果て、
口をきかない関係になる)。あの時にNO!と言うべきだった!

例えば、市役所などの公的な機関や民間の会社企業においては、更に上司と部下との
人間関係(ちから関係?)が存在し、正しくないことの場合もその上司に
気遣ってしまう。

NO と言わない、言えないことから、気まずいこと以上の世界に
巻き込まれてしまう、そして悪しき従属関係を強めてしまう。

距離をちぁんと取れなくなり、そこから自身の病気、退職等の
自己を持ち続けることが不可能な闇夜が続いてしまう。

続けます
🐢🐢

2020-06-23

ちぢめる      時間と時 六回目


🍅

1 ある国の文化について、全体的な視野を持って言及することは難しい(もう一回大学に入り、史学、歴史学の勉強をしなければならない?)。

「歴史」という新しい言葉が限りなく拡がった『時』を自分のちからで確保しないと
いけないからです。恐らく、ヒトの一生の仕事なのでしょう。

それでも、他の諸々の国の文化と区別されるその国特有の文化を
見つけようとすることは意味があると考えます。

ある国の文化の本質的なものには届かないとしても、その入口を見つける!
現象という言葉を使えば、ある国の文化の現象学的な考察を行なう。

しかしながら、他の諸々の国の文化と違うその国の文化と言うと、また堂々巡りに
なるかもしれませんネ。その他の国をどれだけ、知っでいる?

三回だけ、日本から外国に出ています、一つは香港とマカオに新婚旅行で行っています。
でも、留学のような長期の滞在経験は私には有りません。

結局、文化について語ることは、限られている事に成ります。



2 いま、日本の文化と言う時、日本以外の国との違いを挙げるとすれば、
どのようなことが言えるか?

この視座での端緒となる考察に他の国にには見つけることが出来ない文化を
考える、それが日本の場合、ちぢめる、縮小に求められないかと考えています。
(この考察を読んでいるひとが反論を加える形で、日本の文化について理解を
深めていただいたら、とても良いです)

3 ちぢめる、縮める文化とは、基本的には手先の器用な国民性から来るものと考えます。
それが、ただ手先の問題ではなく、私たちの人格や精神性、更に国の存続に関わります。

続けます。
🍒🍓🍒

緑色とのコントラスト(1)


    コントラストと言っても、唯の対立ではなく、
    対立の中で相互が引き上げられる、
  そうした
コントラストを考えています。

2020-06-14

様々な文化がある    時間と時  五回目

🗻

1 文化と呼ばれるものがたくさんあります、このことをどう説明するのか?

例えば、企業文化と呼ばれるものが有ります。ある何らかの共同体の性格と
その持続的性格を考えますと、約15年から約35年と言った何処か限られた
時間の中での『文化』と言うべきでしょう。

コロナ禍の影響だったのか(その前から経営が悪化していた?)、レナウンという
コートで有名だった会社が五月に倒産しました。
アラン ドロンが会社の特定商品のコマーシャルの中で
 C'est  l’elegance !  と昔、言っていました。
しばらく、会社名を聞かなくなっていましたが、中国系の会社に
系列化されていたみたいです。

2 いま挙げています企業文化に対して、共同体の性格がより強く、また
持続的な性格がより大きいものが有ります。

県(州)、国や言語等々が浮かんで来ます。

これから採り上げる国の文化は、共同体の証として『わたしたちの』性格を
強く持っているだけでなく、その持続性が伝統的と呼ばれることがある程の
長さを保持しています。


3 ところが、改めて世界に目を遣って国の文化を考えますと、簡単では
ないことに気づきます。

判り易さを第一にし、オリンピックで掲揚されます国旗を巡る苦労話を
紹介する仕方で国の文化を考える、これが今日の考察の眼目です。

日本で開催された1964年のオリンピックの前の準備段階で、23歳で
オリンピック組織委員会の国旗担当専門職員になった御方の話しを
そのまま、引用紹介します註)。

現在79歳で NPO法人「世界の国旗・国歌研究協会」代表の
吹浦忠正氏がそのひとです。


4 国旗のデザインと旗布が決まり、試作品を作る、そうして組織委員会は
各国にその承認を求める。

この承認を求める段階での苦労話が以下である。

🇨🇮🇨🇮🇨🇮🇨🇮 🇨🇮🇨🇮🇨🇮🇨🇮🇨🇮 🇨🇮🇨🇮🇨🇮🇨🇮 🇨🇮🇨🇮🇨🇮🇨🇮 🇨🇮🇨🇮🇨🇮🇨🇮

  一番苦労したのは、アイルランドです。アイルランドの国旗は、
  緑、白、橙の3色からなる(旗棹側が緑)。
  この緑の色にどうしても納得してもらえないのです。

  見本を送ると『もっと緑を淡く』と言うので、再度送ると、
 『もっとグレードを高く』。

  7回目になっても承認を得られません。

  残り1年、半年ーーーーーーと開会式は迫り、焦りが募る中、7回目の返信には
 『緑は私たちの誇り。それを忘れないでほしい』とありました。

  考えてみれば、アイルランドは実に森の美しい国。緑の深い国です。そこで、
  思い切って緑を手染めにしてみると、8 回目にしてようやく OK が得られたのでした。

  それが開会式のわずか 10 日前のこと。ーーーー途中一部省略ーーーーーーーーーーー

5  今考えれば、アイルランドはケルト人の国ですが、長らくイギリスの
  支配下にありました。彼らにとって、国旗の中で唯一ケルト民族を代表しているのが
  緑です。あの”こだわり" には、国旗に込められた民族の誇りや象徴性が
  端的に表れていたと思います。


🇨🇮🇨🇮🇨🇮🇨🇮🇨🇮 🇨🇮🇨🇮🇨🇮🇨🇮🇨🇮🇨🇮 🇨🇮🇨🇮🇨🇮🇨🇮🇨🇮 🇨🇮🇨🇮🇨🇮🇨🇮🇨🇮

註)週刊新潮 2020年 6月11日号 64ページと65ページを参照
    








 

2020-06-07

教会が始まる

🗻

1 6月7日から教会の御ミサが始まるという今日、その日曜日の早朝、
出て行く時にマスクを確認(マスク無しでは入れない可能性あり)。

6時半のミサに出席。聖堂の中を一瞥すると、一つの長椅子に二人座った感じ。
僕はコロナ対策で、空いていた一番前の席に座る。

2   何時もと違う事がいくつかあった。

神父が説教中に、出席者のある家族を詰る言い方をしたので、後ろを振り返ると
 4、5名(夫婦と子供達)が
離れない仕方が座っている。

すぐにその一家は対応できず、まだ準備しないでミサに与って
いるようだった。

信者が奉仕する聖体行列がなくなる。
神父が聖体を与える前に、手を消毒する。この為に祭壇奉仕者の神学生が
教会入口に置いてある消毒液を取りに行ったのは可笑しかった。

聖体のパンを両手で頂く際、マスクなしの神父が右手を伸ばす時、
信者も余り神父に近付いてはいけない。
上半身を少し傾ける感じが良い。

3 一番ミサに出たのは、出席者が少ないから、前後と左右の信者を
余り気にしなくて良いかも、と考えたからだった。

前後の椅子の間隔も拡げてあった。

ただ、歌を唄わないことになった、新しいやり方は気になった。
マスクしないと出席出来ない筈だから、マスクして唄っても大丈夫ではないか?
歌を通して神を賛美する場面がなくなるからだ。

しばらく、一番ミサに出ることにしている。

追伸:三位一体の主日でしたが、教会の社会学的な考察にして、終わっています。
🗻🗻

2020-06-01

トッドさんがコロナ禍を分析したら

🗻

1 これまで続けて来ています自分のエッセイの基本的なコンセプトは、
あなたが何かを考える時、まず浮び上がっている言葉を二つに分けなさい!でした。

二つに分けて、自己の考察に取って本来的なものを絞り込む、絞り出す。
つまり、本来的なものと非本来的なものを別ける。

これが自分のエッセイのスタイルでした。

ところが、現在、世界中の国々がその対策に苦しんでいると診られる
新型コロナウィルス肺炎に関しては
二つに分けて考えるちからが自分にありません。

2 今日、新型コロナウィルス肺炎に依る死者の意味を二つに分けて
考察出来る、フランスの歴史人口学者であるトッド(Emmanuel Todd)さんを
見つけました 註1)。

3 トッドさんの考察のポイントは、人口10万人当たり何人死んでいるか、
その数を基準にして考えるというものです。


すると、先進諸国の感染状況から、「重度」の国々と「軽度」の国々に
二部出来ます。

重度で最も悲惨なのが(人口10万人当たり死者の数が)  80人を
超えたベルギー。
スペイン、英国、イタリアが 50人台で続き、
フランスは 40人ほど。
米国は約30人です註2)。

4 これに対して、軽度の国々とは、(人口10万人当たり死者の数が)1人以下である
韓国、日本、シンガポールなど。
コロナ禍の猛威に震えた欧州にあって約10人のドイツ、
10人を切るオーストリアは例外的に軽度と言えます。

5 こうした重度と軽度の違いは、トッドさんによれば、文化人類学的に説明出来る。

重度の国には個人主義とリベラルの文化的な伝統があるのに対して、
軽度の国には権威主義か規律重視の伝統があります。
中国もそうです。

概して権威主義・規律重視の国が疫病の制御に成功しています註3)。


註1)読売新聞  5月31日 6面の記事 『コロナ禍で見えたこと』 参照
註2) 米国の場合、州によって大きく異なる。北東部は重度です。ニュウヨーク州は
   150人にも及ぶ、とトッドさんは言っています。
註3)新聞の記事は、より本質的な考察に入りますが、カットしています。
   70歳以上の高齢者の死者の数が極めて多い、とありました。
🗻🗻

2020-05-20

緑色も好き(7)


    初夏には、緑と黄色の
  コントラストの景色が強烈です。

  後方に、赤紅葉の渋さを入れようと
   しましたが、
    ハッキリ写りませんでした。

     緑と黄色の葉っぱは木です。
       
    大木になったものを見ました。
  でも、撮る気にはなれない程の量の葉っぱでした。

2020-05-15

緑色も好き(6)

今日は雨です。明日も天気は良くないです。 

庭で大きくなった花を生けました。

手前に有る白い花は、何て言うのでしょうね。

克己と励ましを通して   ブログ再放送 2015-4-25

🗻
 克己と励ましを通してーーーーーーいのちといのちの持続(六) 註1)ーーーーー

1 これ迄主題として取り上げている言葉は、ヨハネによる
福音書12章24節と同章、25節でした。

24節 よくよくあなたがたに言っておく。
もし一粒の麦が地に落ちて死ななければ、
それは一粒のまま残る。

しかし、死ねば、豊かに実を結ぶ。

   25節 自分の命を愛するものはそれを失い、
   この世で命を憎む者は、
   それを保って永遠に生きるであろう註2)。

2 この24節の前に起った大切な出来事は、
上の言葉を話すキリストと、数人のギリシャ人が
面会、面接しようとしていた、としていた事です。

まず、そのギリシャ人たちに一人の弟子が逢い、
その後に、キリスト本人に弟子の二人が彼らを
引き合わせ、紹介しようとするのです。



ところが、この面接は有りませんでした。

この面接をキリストが忘れたかの様に、
23節後半 人の子が栄光を受ける時が来たーー
24節 よくよくあなたがたに言っておく、
   一粒の麦はーーーと聖書は続くのです。


3 目の前に自分の時が来ていることを知っている存在、
それがいまを生きるキリストです。
その重大な時を、教えを乞う為に来ているギリシャ人に
割くことを避けるのです。

その代わりに、二人の弟子のフィリップとアンドレに自己を
吹っ切るかの様に声を張り上げて、告げます。


4ーーー  良く聴くのだ、わたしはこれから
    君達とは別の所に行く。

    だが、わたしはその苦しみに打ち克つ。 

    そしてまた、わたしの死は決して
    それだけでは終わりではない。

    
    それは一粒の麦と同じだ。

    死の後に、人びとの豊かないのちの
    みなもとに成るからだ。


    あなた達は自己自身をよく観て、 
    滅びの生に打ち克たねばならない。 

    この克己の生き方にこそ、いのちの充溢と
    持続するいのちの未来があるからだ。ーーーーー



註1)最初に書いた記事に手を入れてます。「新しい微笑いの詩」参照

註2)肝心の『一粒の麦が死ぬ』とは、次のように理解しています。

  麦の外皮の部分と麦の本質的な部分ーーここからこそ発芽するーーに
  別けて考えますと、麦の外皮は死んでしまわなければならない。

  もしも、外皮の部分が死なないで腐ってしまえば、全体が死んで、
  麦の発芽そのものがなくなる。

  人間の場合、麦の外皮部分とは身体の在り方から来る物の観方、
  特にこの世的な考え方を象徴化します。

  25節『自分の命を愛するものはーーー』とは、
  こうした意味での「自己」を大切にして
  生きているひとの末路、滅びの生を意味しています。


  後半以下はこれとは正反対の生き方の提示とこの肯定です。
 
  つまり、この世的な意味での自己だけでなく、その源である
  この世そのものに対しても、ある距離を取って
  生きることの出来るひとへの祝福が続きます。

 🌒引用訳は、フランシスコ会聖書研究所訳 
 1981年に依っています。

🗻🗻

2020-05-12

緑色も好き(5)

         他者の作品です。

     遠方中央に立っているのが、
聖母マリアではないか、と想像します。

 全体として緑色の構図がとても良い?