2019-11-16

時間の文法(3)   時間が折れ曲がる

🌋
前置き:
「新しい時間がやって来る」という表現は、特別にある限られたひとだけに
当てはまるのではなく、多くの人々に当てはまります。

例えば、学生の生活が終わり、就職する。

ただ、「新しい時間がやって来る」は多くの仕方で語られる表現で、
『新しい時間がやって来たから単純に嬉しい』ことには、ならないことが有ります。

例えば、愛するひとが亡くなった時には、新しい時間がやって来たとは
言わないのでしょう。
また、新しい時間がやって来たのに単純に嬉しいとは思わない。
逆に、過去の記憶が蘇って来る時が有ります。

次の詩は、この二つのなかの、後者の意味での
「新しい時間がやって来た」を歌っています。


ーーーー 乳白色の静けさ ーーーー
       ブログ再放送 2013-11-20


知らない沈黙がやって来た。
これまでとは違った時間が押し寄せて来た。

この十年以上、あった?
いや、生まれて初めての時間かも。

明るい沈黙がやって来た。
折れ曲がった過去の時間が柔らかく拡がって行く。

新しい時間が過去の時間にアイロンをかけてくれているのだ。
いま、僕の耳に流れて、聞こえて来る歌がある。

ーーI once was lost  but now I' m found.
was blind but now I see ーー.

そして、素直な気持ちでこの世に向かっていく自分、
この世界と折り合っていける自分がここに居る。

😐エピローグ
去る10月23日にある報せが届きました。
一ヶ月経ってもその余韻が続いています。

🗻

2019-11-11

時間の文法(2)ー時間が止まるー

💫💫💫
1 以前に投稿した記事 ( 時間についてのエッセイ〈1〉2014-01-22 )を、
タイトルを時間の文法(2)に変えた形での再放送です。



2 昨夜のラジオ深夜便で、由紀さおりの特集を聴いた。

二曲目は、『愛し合うその時に、この世は止まるの!』
という「夜明けのスキャット」。

でも、僕は「この世は止まらない」と思う。

二人が愛し合う時も世の中は、それとはお構いなしに
動いているよ、と詰まらないことを言いたいのではなく、
「この世の時間、秒刻みの時間が停まる」という驚きを
表現したいんだなと思う。


3 それは新しい時間に与ることの歓びなのだ。

愛し合う時、信じられないことに、自分の忘れてしまっていた
過去、喪っていた過去が甦って来るのだ。

それだけでなく、新しい自己に目覚める。そして未来の時間が
これから始まる予感にワクワクする。

同時にこのひとと別れたら?というある種の不安がチラッと
頭の中を横切る。


4 愛し合うことにおいて与えられる、この新しい時間は、
この世からある意味で離れる時間に属するのだから、
この世は止まるように感じるのだと考えます。

🎢🎢🎢

2019-11-09

時間の文法(1) ー時間が過ぎ去るー      


🏋️🏋️🏋️
1 ひとがあんまり使わないように考えます、時間の文法という言葉の発想において
わたしが意図していることは、時間という言葉の意味理解を深めることです。

この目的理解の為に次のことをします。

まず、時間を主語とした言葉の使われ方のなかで、つまり、
時間を主語とした命題において、どのような具体的な動詞が考えられていて
この命題が出来ているのか(ただ時間を述語とした時にどのような具体的主語が
考えられるか、は頭に浮かばない)?

例えば、時間が過ぎ去る。時間が止まる、時間がねじ曲がるーーーーー

2 この観点に、更にひとの経験に立脚した「時間の経験」を加味する。
この二つの視点を入れた総合的な理解を通して、時間を主語とした命題理解を
深める。

上の最初の例だったら、『時間が過ぎ去ってしまっている』に変わる。


3こうした前置きを踏まえて、これから示します詩や歌の中で
時間理解をより深めます。

ここで、今日取り挙げます歌は良く知られた曲  First of May  1969年
日本語のタイトル『若葉の頃』です。そして私が好きな歌い方は、
Sarah Brightman に依るものです。
特にYouTubeで、オーケストラと女性コーラス隊をバックにした方の唄が好きです。
 
この中で、Time has passed us by  という経験の表出に出逢います。

ただ全体の歌詞の意味は実は、良く判らないです(この映画 イギリス映画 
「小さな恋のメロディ」をまだ見ていない)が、時間の理解の点で何か
感じるものがあって紹介しています。

現在から過去を診るコントラストがよいと思います。


4 First of May の歌詞、一部

When I was small, and Christmas trees were tall,
we used to love while others used to play.

Don't ask me why, but  time  has  passed  us  by ,
someone else moved in from far away.



Now we are tall, and Christmas trees are smal ,
and you don't ask the time of the day.

But you and I, our love will never die,
but guess we' ll cry come first of May.

🎅🎅🎅



2019-11-02

記憶において拡がる「私たちの世界」  時間16回目

🍱🍱
¹ 文化と呼ばれるものが何処かメンタル、精神的なものの持続の世界に
属するのに対して、文明と呼ばれるものは、かって持続した技術科学の
世界、またある過去から現在まで持続している技術科学の世界に属します。

どちらも、ある共通点が有ります。

わたしだけの経験を超えた、ある過去からの持続の時間を意味するからです。
厳密な意味での共同体に係ると言うのは間違いですが、
広い意味での共同体に係る過去からのある何らかの持続の時間を
指し示すと考えます。

そして面白いことは、ここでは世界という言葉が時間と
同じ様な意味を持ち始めています。

2 文化の視点でまず浮かぶのは、故郷や古里でしょう。

あるひと、ある始めて会ったひとと話していて、たまたま、二人の産まれ
故郷が同じであることが判明すると、直感的にある限られた時間であっても
同じ世界に居た! という了解が起ります。

過去の経験という表現が、基本的に自己を中心とした世界の展開であると
考えられるのに対して、ここでの文化とは「私たちの世界の展開」だと考えます。 

確かに、故郷や古里という文化の共有が常に必ずポジティブな意味合いを
持つとは限りません。
上の文脈から離れた時には、『同じ世界に居た』(=同じ様な時間を持った)と
いう理解そのものからは、逆にネガティブな自己嫌悪感や相手に対する嫌悪感が
生まれることが大いに有り得ます。

例えば、会社で何でこんなヒトが社長をしているのか、と常々、
不審に思っているそうした時に判明したことが、社長は同郷のひとだった!
(にも拘らず何らかの機会にその社長と同席する機会が起こった場合には、
何か会話を始める糸口には成るかも)。

故郷や古里の共有は、相手の理解・認識を深める上で大きな意味を持つと
言って良いでしょう。

3 そしていま、持続という視座を前面に出しますと、これまで言及している
文化には、ある過去からの「わたしたちの世界の展開」という観点だけでなく、
その持続する持続性が過去からのわたしの記憶の持続性以上により持続的である、
という観点が見出されます。

続けます。
🤼🤼🤼