2021-04-30

🐙美味しいたこ焼き

材料は、🐙二個、小麦粉、
野菜がタケノコとほうれん草、あと

畑から取って来た名前の判らない野菜の葉っぱ。


で、二回目の挑戦にしては、

一回目より美味しい感じです。

塩胡椒の代わりにニンニクの

振りかけを使い、味をしめています。

 

2021-04-26

⛳朝倉市 秋月を通る

江戸時代の秋月藩の大名屋敷。

 

屋根が瓦ではないのが面白いです。

 

草が はへていないのが良いと思います。

 

 

 

 

 

福岡県の軽井沢?

朝倉市の中心から北へ行って約45分、秋月の乱で知られる

秋月、そこから更に東へ行くと

美奈宜の杜(みなぎのもり)と言う 別荘地?が開ける。

 

冬の寒さに耐える為か、ある家にはストーブの煙突、

黒っぽい煙突が見える。

その為か、ストックされた短い材木が道路から

見える建物もある。

 

 

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2021-04-24

🏝どくだみの赤色

 

庭の朝7時から10時過ぎ、天気が良ければ、

一番陽当たりがよい東隅の場所を開墾して、

何か野菜の苗を買って来て、植えようと考える。

その為に繁茂している草や捨てたままにしている

切倒した木を取り除く必要が出て来た。
圧倒的に目立つのがどくだみだ。


そして、どくだみを根から、沢山引き抜く。

気付いたことがあった。

どくだみは黒がかった緑色をしているが、

ひっくり返して裏側を見ると、赤色である。

 

どくだみ茶にして飲むと健康に良さそうだから、

希望者には郵送しようかと考える。

 

でも、誰も希望しない?

 

2021-04-23

🎢 image と image でないものの線引き 理性と時間(2)

  知性 と 感覚を区別する考察において厄介な問題が有ります。

 

Imageという言葉を何処に置いたらいいのか?

 

どういうことかと言えば、 image と呼ばれる存在は、

感覚的な働きにおいて見出されます。

然しながら、この存在はまた知性的な働きにおいて

も見出す事が出来ます。

 

  image を 感覚のちから、知性のちからと同じような視点で、魂のどの様なちからかと問うてみますと、

想像力 imagination がそれに当たります。

 

今までの僕のブログ記事の考察手法である

『二つに分けて考える』を適用して

image―想像力を再把捉しますと、

想像力は二つに区別されます。

 

感覚に近い想像力 と 知性に近い想像力です。

 

3 朝の目覚めの音楽ということで、グリーグの

ペールギュントの音楽とベートーヴェンの「田園」をよく聴きます。

 

グリーグのペールギュント  第一組曲は、僕の

小学校卒業式の開式の音楽でした。二列に

並んで、合わせて三クラスの生徒が会場の講堂に

入って行く際に流れた、如何にも朝 (=別れの朝?)という音楽でした。

 

この音楽を聴くと、今でもその場所、講堂の中の

Image が生き生きと浮かんで来ます。

 

4 難しいのは、この想像は、感覚的なimage に属するのか、それとも知性的な image に属するのか を定めてしまうのが、簡単ではないことです。

 

恐らく、人生において初めての別れ・離別を

経験したことが根底にある為、自分の

心の中で知性的な image

算入されているように考えています。

 

その後の卒業式は、中学であれ高校であれ

記憶にないです。  

 

5 上の話しは、耳から入って来る音楽を念頭に

置いて image ― 想像力を考えてみました。

 

全体として理性とは何かを考える端緒ですが、

次回は 目に見える世界で image ― 想像力を

考えてみます。

 

🙁😧🙁

 

🏃‍♀️近くにある小学校

下の子が小学校時代、五年生と六年生の時に

通学した学校の建物が池の向こう側に見えます。

 

一年から四年までは、旧い筑紫野市役所があった

建物近くの小学校まで約40分掛けて通学しました。

 

天拝小学校と言う名の学校ですが、管理的な匂いの

感じがない学校で良かったです。

 

その次女は東九州で、三歳の子を幼稚園に預けて

職場へと行っています。

👩👩👩

 

 

 

2021-04-18

🐢🐢🐢 構図を変えると

昨日提示した写真を構図を少し変えて

再登場させています。

 

左側から少量の光を入れ、花瓶の色が藤の花の

緑とあるコントラストを成す。

 

しかも、左に見えるツツジとモッコク、赤色紅葉が

これから先に咲き出すはずの藤の花と

全体的なコントラストを成しています。

 

 

 

 

🐢🐢🐢 構図を変えると

昨日提示した写真を構図を少し変えて

再登場させています。

 

光を入れ、花瓶の色が藤の花の緑と

コントラストを成す。

 

しかも、左に見えるツツジとモッコク、赤色紅葉が

これから先に咲き出す藤の花とコントラストを

成しています。

 

 

 

2021-04-17

🌷🌷ツツジの花が咲き始める

新しい年度に入って、制度的なものが変わりますが、

僕が気付いたことを二つ。

 

Radio の朝平日6時半から始まる中学生の

基礎英語が、英語だけで

15分通す試みです。

 

複数の先生が対話的に15分を生かしています。

 

先週、

Is this program boring ?  という表現が出てきて、

先生の一人が  Yes.  と笑いながら答えていたのが

良かったです。

 

 

他の一つは、土曜日限定みたいですが、

小学生向けの基礎英語が始まりました。

 

面白いと思ったのは、game です。

 

一人が何かを思い浮かべる。

Is it big ?    No.

   Is it red ?     Yes.

     Is it round ?   Yes.

 

で、You  are  thinking of APPLE .

       Right.  でした。

🌷ツツジの季節

 

 

 

🪐ジャンプする思考の大切さ

1 カトリック世界の聖人で、思索においてとても深い

トマスを、普通のひとに生かすことの出来る可能性はないか、

こうしたチャレンジ精神の中で生きています。

主著である『神学大全』の日本語の翻訳(創文社発行)が、

36冊にもなるトマスを、現在、経験主義の眼差しで観て行く、そして

それが行き詰まる時は新しく考え直せば良い、と考えています。

2 しかし哲学的な思索を経験主義を通して続ける、

しかしながら、そこから何らかの経験主義的な神学?が

打ち建てられることはないのでしょう。

存在そのものとしての神の 恩寵gratia に与る信仰

というものは、上の哲学の延長には位置しないからです。

多くの哲学研究者は神という言葉から離れています。

そしてその言葉が嫌いな思索家は、理性主義一辺に

走ります。

神はないと主張するだけでなく、また言います。

 

神は人間が創り出したものだ。しかも、

その神にヒトが支配されている!

 

しかしながら、この理性主義という  『信仰 』は
必ず、何らかの挫折を伴うと考えます。
ひとは理性への全き信仰という刃に、自ら傷つくことを

覚悟しなければならないからです。


  ところが、逆に、人間のコア部分である理性(=自己)を

否定的に考えるひと達が存在します。

理性 、意志を含めた理性の存在を価値のないものと見做し、

(のみ)への信仰を強調するひと達です。

プロテスタントと呼ばれていますキリスト教の

基本的な考え方です。

そして、神の存在の全きさと人間の罪深さが強調されます。

つまり、神がすべてであり、人間は無であろう。

 


4 この二つの両極端の思考法に対して、

トマスの優れた思考方法は、次の点にあるのではないでしょうか。

 

神の存在の輝きは理性の明るさと矛盾しない。

またこう言っても良いです。

理性の明るさの存在が、神の存在の輝きの受容、

つまり私達の信仰を準備する!

しかし、ひとはどうやって、理性の明るみに至るのか?


4
信仰とはただの行為ではなく、ひとのあること・ひとの人格の

成立に関わっている重大事です。

そして、人格の存在とは必ず、理性の自己への立ち帰り

・自己認識を前提しています。

 

自己を何らかの形で把握する、このことがなければ、

まだ人格の意味は正確には出て来ません。

その人間がまともか、どうかを知ろうとするなら、

自己認識を持っているか、どうかを観たら良いのです。


そして、この自己認識をhabitusという持続の在り方から

深く把握し直しますと、実は、自己認識の完成が理性の完成に

到達することなのです。

6
自分は足りない人間だ、不完全な者だ!という認識を

持続的に持ち続けることが出来るひとが、実は
神の恵みに与ること、神への信仰への

すぐ手前に居るのです。

 

この事態を、理性の明るみと考えます。

 

🐸🐸🐸

2021-04-13

😇忘却とカトリック世界

1忘却という言葉は二つに分けて考えることが出来ます。

 

何かが忘れ去られる、忘却が軽い意味を持つ場合と

忘却が重たい意味を持つ場合です。

前者の場合にはその忘却が許される、ところが、後者は

その忘却が決して許されない。

 

例えば、一昨日に茄子の種を撒いたことを一週間後に私が

忘れたとしても、咎められる事はない。ところが、マスク無しで

公共の場所へ行くことは現在のところ、許されない。

 

許されないだけでなく、またそのひとの人格的な存在が疑われることが

起ります。その忘却が周りの人たちにとって極めて有害となるからです。

 

2 忘却を、ひとという視座から拡げて法人的な世界に関して

考えてみます。

何か話が飛躍するのですが、企業、地方自治体、国家、――――

数え切れない法人が有ります。

 

これから取り上げるのは、カトリックの話です。

 

3 実は、カトリックの世界で 13世紀に活躍した

トマス・アクィナスが今日では忘却されているのです。

今日、カトリックの神父の多くはトマス・アクィナスを

読まないで司祭職を為さっておられます。

 

福岡市にある教会は、聖トマスが属していたドミニコ会が

運営するものでした。この運営がそれまでの管区とは

異なる管区のドミニコ会の運営に代わりました。

韓国から司祭や助祭が来られ、一度だけその新しい

御ミサに与った事があります。

パーティーの席で、神父とトマス・アクィナスの話を

しましたが、読んでいないとのこと。

 

4 トマス・アクィナスを愛から離れた哲学者また

神学者だと思い込んで、読まないのだ、つまり忘却されている?

 

愛という言葉に関して、大切なことは次の点だと考えます。

 

愛の存在とは、相手に対する信頼だけでなく、更にまたそのひとに

ある希望を見出すのでなければなければならない。

相手の現実性を受け入れるだけでなくまた、そのひとの未来への

ある信仰がなければ愛はまだ、充実した存在とは言えない。

 

したがって、こうした信頼と希望はハビトゥスという

持続的な存在の視座に与るものでなければなりません。

行為主義的な一過性のレベルでは出て来ない話です。

 

これから、愛の哲学者また神学者としてトマスを理解すること、

これが僕の課題になるのかな、と考えます。

😃😄😅

2021-04-12

🎏 見たことがないワラビ

日曜日の午後、大野城市と太宰府市の境界に位置するように見える

石原裕次郎メモリアルパーク入口の前から

大きな貯水池の横に続く細い路を通って、

妻と一緒に二時間程、山の新鮮な空気を吸って来ました。

 

途中で、沢山のワラビと出遭いました。

 

上の写真で、巨大なワラビ二本の背後に

見える二本のワラビがほとんどでした。

 

しかし、この巨大サイズのワラビは

生まれて初めて見ました。

お化けのワラビと思いませんか。

小川のせせらぎが、ウグイスの声が

1mより少しだけ広い小川を、

メダカが大きくなったような

小さな魚が、流れに逆らって、

登っていくのが面白かったです。

 

 

 

 

2021-04-09

存在と言葉

存在と言葉  (1)

 

前置き:  笑いを手掛かりに、存在と言葉の結び付きを

考えることが今日の考察の狙いです。

 

  実は、この世の中で私たちは様々な笑いを体験しています。

つまり、笑いは一種類だけではない、多くの種類の笑いがある。

 

例えば、人において生起する行為の視点で考えますと、

すると微笑、可笑しいから笑う、wit 、冗談、高笑い、嘲笑――――

の多くの笑いを見出します。

 

笑っているひとを観察しますと、受け身的な感じで口許が緩み、

眼が優しい光を帯びて来る。また更に、場を和らげる冗談に

周りの人たちが乗って明るくなる。

攻撃的な笑いも有ります、本人が笑いの対象となるヒトに

攻撃的になり、そのヒトを嗤い飛ばす。

 

2 笑いに、笑われているヒトの視点から接近しますと、

笑われてもドーテ事はない、つまり、単に一過性のことと

してすぐ、忘れて仕舞う笑いから、後にダメージとして

記憶に残る笑いが見出せます。

屈辱の体験です。

 

3 いま、笑いという表現を横に措いて、

「笑いの存在」という今日の主題となる話に入ります。

 

笑いの存在とは、主語としての諸々の笑いの

述語付け的な側面に焦点を絞った表現です。

 

例えば、微笑は笑いである

              高笑いは笑いである

             嘲笑は笑いである、と言われる時に、三つの

文章に共通している述語付けが、笑いである です。

 

そして、確かに言語表現的には  述語の笑いである  は一つです。

ところが、述語付けを行なう魂の動向・魂のリアリティから判断しますと、

笑いである は一つ以上の仕方である(ここでは三つ)   と考えられます。

 

ここから、笑いの存在とは多くの仕方であるという考え方が出て来ます。

続きます。

🐸🐸🐸

2021-04-07

FW: 紫色の花

 

 

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2021-04-04

🌏🌏🌏熱い視線をうけている国家

  今、台湾という国家が世界から、熱い視線を

受けているのは、二つの理由が有ります。

 

一つは、経済の視点です。

パソコンやスマートフォン  そして車等々の産業機械の

基礎的な基幹部品の 半導体製造に関して、

世界最高の企業が台湾に在るからです。そしてあと、

オランダが続いて、世界有数の半導体製造の企業を

有する国だと言われます。

 

2 ところが、台湾が二つ目に、世界の注目を集めているのは、

軍事的な視点です。

 

6年以内に、台湾に中国が侵攻する。

 

この二つの話は、日本経済新聞朝刊が去る3月の中旬に

発表した記事の要約です。同じ日に、別々の紙面を使って

明らかにしたものです。

 

後者の侵攻に関して、アメリカは台湾を侵攻する

中国軍に勝てないのではないか、アメリカや日本が

ちからを併せても、中国の軍事力が上だという指摘です。

 

世界中の散らばっている原子力空母機動部隊を台湾海峡へ

集めたら勝つかも知れないが、台湾海峡へ到達前に勝負は

ついているとのこと。

 

3  2008年の リーマン ショック という大恐慌以来、

世界の中に躍り出た 中華人民共和国国!

 

困窮のなかにあった先進国に、兆単位の資金援助を

行い、救世主となった。当時の資金援助の最高責任者が

現在の中国共産党の副 主席です。

 

  中国の海洋進出に、現在、多くの国が警戒の眼を

向けています。

フランスだけでなく、何とドイツまでが艦船を

東アジア海洋地域へ派遣する時代になって

しまいました。

 

前アメリカ大統領トランプの下で副大統領を務めた

ペンスが為した議会証言依頼、共和党 民主党を問わず、

中国を信用できない国、敵だと見做し、今日まで来ています。

 

一企業が国を支配するという信じられない時代の中で、

台湾にある半導体製造の会社は、まさしく、世界的に名の

知られたIT企業 さえもその支配下に置いているように

見えます。

 

アメリカ合衆国が台湾の世界的な半導体製造の会社を、合衆国へ

誘致した、という記事を読み、さすがだと思いました。

これに対して、日本は何をしている?

 

 

5 昔、1930年代に、満州事変をひきおこした日本。

リットン調査団がやって来ます。その後、日本は

イギリス、アメリカ等の連合国に包囲されて行きます。

 

今、中国と中国共産党に対しての大きな包囲網が出来つつ

ある、と考えます。

 

恐らく、この3年以内に台湾侵攻の有事が有るかも。

わたしたちも、身構えなくてはいけない?

 

🙁🙁🙁

 

 

 

 

 

 

 

2021-04-03

🚀 和歌山のエジソン?

 

 

上の写真は、この3月に一ヶ月、掛けて掲載された【私の履歴書】の

中、330日に載った主人公 島正博氏(現在、島製作所の会長)と

奥様のtwoshot である。

 

最後の日31日、アメリカ航空宇宙局からの要請で、世界初の

縫い目の無い服、宇宙服を納入した話が出て来る。

 

宇宙船の中、無重力空間でひとが動き、仕事をする際には

1gでも軽量で、決して服の切り屑が出ない服、それが

シームレスの宇宙服だ。

 

だが、スタートは手袋を造る会社だった。

 

お金の苦労と会社の業務の革新の話が繰り返される。

保険料を支払うべきお金に回そうとして、あと一人の会社幹部と

国鉄時代  の線路に飛び込む話が出て來る。

ただ、奇跡が起こる。

 

そこから世界的な企業へと発展、島正博氏の成功の人生の

秘訣を楽しむことが出来る。

何よりも、将来を予見するちからが素晴らしい。

 

ただ、リーマンシヨックの後、和歌山のラジオでディスクジョッキー

を勤めた奥様が、

そのお仕事を何年か続けられて、辞められた後、

あっという間に亡くなられた話は残念だった。

 

体重が75kg、自分は50kgと書いてあったが、奥様の死の後、

ぽっくり穴があいたとしか、島さんは書いていないのが

事の大きさを表している思う。

 

理性と時間

🐞 理性と時間             時間と魂の存在  四回目

 

  魂の働きを考えます。

眼や耳そして触覚が頭に浮かびます。

 

触覚ということで、僕は痒みを先ず考えます。

水虫の痒み、左耳の中での、週に一二度感じる痒み、左上腕部の

少しだけ隆起し膨れた傷跡血管の痒みが、痒み 

浮かぶ具体的な内容です。

 

長い人生の中で見つけた智恵か、上の痒みはすべて、市販の酢を購入して、

それを綿棒に含ませて、痒いところに塗る処方をしています。

 

触覚と言えば、味を感じることが特に大切なのでしょうか。お酒を飲む人が

飲む透き通った焼酎の味が消えた、辛口の日本酒の味が無くなった 、或いは

ビィールの味が水を飲むようだとしたら、人生の楽しみが無くなった!と

感じるのでしょうね。

 

 

2 見ること、聴くことそし触覚を通して何かを感じることは、

魂の大切な働きだと考えます。

 

時間と共にある世界に関わる身体の感覚的な機能ですが、se habere  という
habitus
の視座で再把握しますと、こう考えられます。

例えば、視力や聴力に関わる能力を喪失していて、

そこで生きることができる自己を持ち続けていないのであれば、
小さい時から正常な視力や聴力を持つ子供とは 区別された学校教育を
受けなければならないことになります。
クラスターという言葉が、今日、新型コロナウイルス肺炎感染症患者に

使われます。ウィルスの為に死に臨んでいる、その可能性を持つウィルスに
かかった集団のことですが、

ここ、感覚の障害者についても、死とは向い合っていない、だけど
何らかの意味でのクラスターに属すると言えます。

それは、人生という道を考える際に、ある制限された世界に

身を置くことを意味するからです。

 

これまで、自己を持ち続ける、自己を持ち続けられないことの意味を

感覚能力に限った形で話しています。


3
次に自己を持ち続ける、自己を持ち続けられないことの
意味を理性能力に着目して思索をしてみましょう。

ただここで、予備的な考察として

イメージ   imageという言葉に注目して、
理性と感覚の境界を定める話をしたいと考えます。

 

イメージという言葉は、現在、理性へと拡がり、感覚における

イメージだけではなく使われているからです。

 

 

イメージという言葉の肥大化した世界で生きている私達が

向かい合うべき問題だと思います。

🙂