1忘却という言葉は二つに分けて考えることが出来ます。
何かが忘れ去られる、忘却が軽い意味を持つ場合と
忘却が重たい意味を持つ場合です。
前者の場合にはその忘却が許される、ところが、後者は
その忘却が決して許されない。
例えば、一昨日に茄子の種を撒いたことを一週間後に私が
忘れたとしても、咎められる事はない。ところが、マスク無しで
公共の場所へ行くことは現在のところ、許されない。
許されないだけでなく、またそのひとの人格的な存在が疑われることが
起ります。その忘却が周りの人たちにとって極めて有害となるからです。
2 忘却を、ひとという視座から拡げて法人的な世界に関して
考えてみます。
何か話が飛躍するのですが、企業、地方自治体、国家、――――
数え切れない法人が有ります。
これから取り上げるのは、カトリックの話です。
3 実は、カトリックの世界で 13世紀に活躍した
トマス・アクィナスが今日では忘却されているのです。
今日、カトリックの神父の多くはトマス・アクィナスを
読まないで司祭職を為さっておられます。
福岡市にある教会は、聖トマスが属していたドミニコ会が
運営するものでした。この運営がそれまでの管区とは
異なる管区のドミニコ会の運営に代わりました。
韓国から司祭や助祭が来られ、一度だけその新しい
御ミサに与った事があります。
パーティーの席で、神父とトマス・アクィナスの話を
しましたが、読んでいないとのこと。
4 トマス・アクィナスを愛から離れた哲学者また
神学者だと思い込んで、読まないのだ、つまり忘却されている?
愛という言葉に関して、大切なことは次の点だと考えます。
愛の存在とは、相手に対する信頼だけでなく、更にまたそのひとに
ある希望を見出すのでなければなければならない。
相手の現実性を受け入れるだけでなくまた、そのひとの未来への
ある信仰がなければ愛はまだ、充実した存在とは言えない。
したがって、こうした信頼と希望はハビトゥスという
持続的な存在の視座に与るものでなければなりません。
行為主義的な一過性のレベルでは出て来ない話です。
これから、愛の哲学者また神学者としてトマスを理解すること、
これが僕の課題になるのかな、と考えます。
😃😄😅
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