2021-04-13

😇忘却とカトリック世界

1忘却という言葉は二つに分けて考えることが出来ます。

 

何かが忘れ去られる、忘却が軽い意味を持つ場合と

忘却が重たい意味を持つ場合です。

前者の場合にはその忘却が許される、ところが、後者は

その忘却が決して許されない。

 

例えば、一昨日に茄子の種を撒いたことを一週間後に私が

忘れたとしても、咎められる事はない。ところが、マスク無しで

公共の場所へ行くことは現在のところ、許されない。

 

許されないだけでなく、またそのひとの人格的な存在が疑われることが

起ります。その忘却が周りの人たちにとって極めて有害となるからです。

 

2 忘却を、ひとという視座から拡げて法人的な世界に関して

考えてみます。

何か話が飛躍するのですが、企業、地方自治体、国家、――――

数え切れない法人が有ります。

 

これから取り上げるのは、カトリックの話です。

 

3 実は、カトリックの世界で 13世紀に活躍した

トマス・アクィナスが今日では忘却されているのです。

今日、カトリックの神父の多くはトマス・アクィナスを

読まないで司祭職を為さっておられます。

 

福岡市にある教会は、聖トマスが属していたドミニコ会が

運営するものでした。この運営がそれまでの管区とは

異なる管区のドミニコ会の運営に代わりました。

韓国から司祭や助祭が来られ、一度だけその新しい

御ミサに与った事があります。

パーティーの席で、神父とトマス・アクィナスの話を

しましたが、読んでいないとのこと。

 

4 トマス・アクィナスを愛から離れた哲学者また

神学者だと思い込んで、読まないのだ、つまり忘却されている?

 

愛という言葉に関して、大切なことは次の点だと考えます。

 

愛の存在とは、相手に対する信頼だけでなく、更にまたそのひとに

ある希望を見出すのでなければなければならない。

相手の現実性を受け入れるだけでなくまた、そのひとの未来への

ある信仰がなければ愛はまだ、充実した存在とは言えない。

 

したがって、こうした信頼と希望はハビトゥスという

持続的な存在の視座に与るものでなければなりません。

行為主義的な一過性のレベルでは出て来ない話です。

 

これから、愛の哲学者また神学者としてトマスを理解すること、

これが僕の課題になるのかな、と考えます。

😃😄😅

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