2019-10-24

象徴の務め



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1 10月22日、午後一時過ぎ皇居で、新天皇の即位を識らしめる、日本国内
だけでなく、外国の人々にも宣明する儀式がありました。
そこで、発せられた言葉に関心が向かいました。

令和の陛下と安倍内閣総理大臣の「象徴」を巡る言葉使いに関心を持ちました。

2 池上 彰の「超訳 日本国憲法 註1)」における象徴という言葉が
登場する箇所(33頁ー42頁)を読みますと、日本国憲法 第一条の
『天皇は日本と日本国民の象徴である』についての説明は次の説明に
なっています。

始めに、日本国憲法 第一条を明示してから、池上さんの超訳を引用します。

第一条 天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、
    この地位は、主権の在する日本国民の総意に基く。

  超訳  天皇は、日本という国の象徴であり、国民がまとまっている
      という象徴である。
      日本国民みんなが認めているから、天皇の地位がある(同41頁)。 


気付くことは、象徴の意味についての言及やその深い意味についての説明が
特にないことです。
パスしている?

恐らく『鳩は平和の象徴である』、この意味に即した形での象徴理解が
第一条の池上さんの理解のすべてに流れていて、池上さんはこの解釈で良しとしている?

3 しかしながら、鳩は平和の象徴であると全く同じ意味で、『天皇は日本国の象徴であり
日本国民統合の象徴である』を考えておられるのであれば、不都合なことが起ります。

と言うのは、この火曜日、陛下のお言葉の中での「象徴のつとめを果たす」或いは
安倍内閣総理大臣の祝辞(=お祝いの寿詞)の中での「象徴としての責務を果たされる」
という表現で、象徴という言葉を深く展開しておられることを重視して考える必要があるからです。

4 鳩は平和の象徴である、と言われる時、この文脈でまた、鳩は平和の象徴の
責務を負っているとは言えません。
鳩は平和の象徴である、とはただ、鳩は平和を指し示す動物である、それだけで
完結していて、更に深く考える必要はないのです(ただ指示と象徴の違いを明確に
する必要がある)。

しかし、天皇という人格者に関しては、国の象徴であり国民統合の象徴である。
かつそれだけでなく、国の象徴の責務を果たされるべきである、そしてまた
国民統合の象徴の責務を果たされるべきである。
この言い方は、論理的に自然です。

5 ところが、ただ単に、日本国統合の象徴が天皇であるという規定だけ
で、象徴の意味が完結しているのであれば、新天皇は名の点でただ、
存在するだけで良い、
つまり、日本国民に『寄り添って生きる』(今回即位の礼での御発言)
生き方は必要ないことになります。

結果的に、天皇は単に制度また制度的なものになってしまい、ある人間的な
 obligation から離れたシステムになってしまいます。

6 そして、単なる制度としての天皇 観 の根底には人間としての視座が欠けていて、
最近何年か前 (2016年 )の「退位」という上皇様の御発想はそうした天皇 観 に
固執する人々にとって、とんでもないことだったと推測されます。

天皇は病気もしていけない?

ところが、新憲法における天皇たるものは、ある限られた仕方で国民に
仕える存在でなければならない。人間的にある苦しみを担うもので 
なければならない。
この意味ではまた、天皇は重たい病気をしていけない?

このことを陛下だけでなく、安倍内閣総理大臣が明らかにしたことが、
今回の即位の礼での極めて大切な点だった、と考えます。

7 わたしは、安倍首相は、天皇制をしっかり(理性的に)二つに 
分けて考えていないから、これまで良くないと考えていました。
 
戦後、国民に受け入れられている天皇制とは別の専制的な天皇制を
安倍首相は考えている、と思っていました。

この考え方が良くないのは、結果的に天皇をただの制度にしてしまい、
内閣総理大臣を頂点とする政治の頑張りのみに期待せざるを
得ない状況を生み出してしまうからです。

現在の日本の場合、民主主義と上で述べている意味での象徴天皇制の
両輪が肝要であり、民主主義だけ、またこの象徴天皇制だけ、という
二者択一の発想は取るべきではない、と考えます。


註1)2015年 新潮新書 新潮社

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2019-10-14

持続を巡る笑い話     ブログ再放送 2014-09-21

1 毎日、自分の頭に浮かんでくる言葉、また眼に見えるものに、
フィルターみたいに「持続」という概念をあてがって生きている日々です。変かな?

何かを飼う、とは持続である。うん🐇
しっかり気持ちを持ちなさい、は持続を表す表現である。うん👷

男はその後死に続けたは、間違った日本語の表現だな(但しもしも、
その男が役者ならどうなる? うーん🛌)


2 ある仕方で自己を持続する(持ち続ける)の反対は?
自己を変える、チェンジする。うん🐪
(オバマ前アメリカ大統領は、チェンジ!チェンジ!と叫んで
大統領になった、けど、自分を変えなかった?)


3 持続の反対は、ただの流れ、ただの現れかな?

それで、あるひとがこう主張したとする。
「この世は、すべて空である(単なる現れである)」と。
ぼくは、先日ラジオの教育番組でこの言葉を聴いた。

でも、ウソつけ!講師のお前がただの空っぽなだけさ。ぼくは反撃する。
存在と現れ(=現象)の峻別をちゃんと出来て言っているのか?
これだけでも、人間一生の仕事なのに。

あるものは空なら正しい、自分を含めてすべて、空だとは
言っちゃいけないよ。
🤺🤺🤺🤺🤺

2019-10-03

記憶と文化と呼ばれるもの    時間 15回目


1記憶の存在へ眼を向け、林のような世界から何かを得ようして来ました。

これを読んで下さっている方のなかには、何で知覚、見る see の世界に向かわないのか、
記憶は知覚より、マイナーな世界ではないか?
イギリス経験論のロック、ヒューム そしてこの経験論を理性の視点から完成へと導いたと考えられるカントという大きな流れからすれば、傍流しかも細い流れではないか、と
いう想いをお持ちかも知れません。

これに対して、自己のあるという視座に執着しますと、必ずしも傍流ではない、そして
記憶の世界が知覚の世界よりも重要だと考えます。

見るは、それを見ている世界のあることに関わります。もっと言えば、科学的な世界に
関わるものです。

しかしながら、自己のあるという視座を前面に出しますと、見ることは、それだけでは
自己のあるというその点には、広い意味では関わっていると言えても、厳密な意味では
関わっていない、と考えます。

これから、記憶理解の深まりが自己のある理解の深まりへと繋がる
思考を続けます。



2 記憶ということで大切な概念は、持続、続くでした。

これまで、過去の記憶そして制度的なものの記憶を取り上げました。
実質的には、現在まで続く過去の記憶 の意味そして、
現在まで続く制度的なものの記憶の意味を考えて来ました。

3   そして新しく取り上げる記憶は、文化と呼ばれるものです。
この広い意味での文化をどの様に絞るか、が差し当たって問題になります。

注意点が有ります。ここでは、あくまでも記憶との関係で文化が探究対象になります。
つまり、わたしたちが考えがちなそれ自体的な意味での文化は、考察の外に
置かれます。

4 わたしの絞り方は、
 あ)広い意味での文化を、文明から区別する。
 (ここでは、広い意味での文化に文明が属する、を前提しています。)

 い)更に、文明を切り離した仕方で、また更に文化を二つに分ける。
  そして、記憶にとっての厳密な意味での文化を定める。

  こんな風になります。

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