時間と魂の存在 三回目の続き その後半
1 私は 実は、ルカによる福音書 15章 11節からのイエスの話しのタイトルに
見出される『放蕩息子』という全体の構図を定めてしまいかねない表現を好みません。
教会に通っているキリスト教信者の多くは、自分と関係ない話だと思い、上からの視線で
主人公の二男を自分たちから離れた存在としか観ないかも、と考えるからです。
キリストの教えから離れて生きているひとが、あるキリスト教信者に敬虔な、と
いう形容詞を貼り付ける、しかし、自分とは関係ない離れた彼岸の世界だと考えるのと
似ています(何とか生きのびている現在の自分に、遠い言葉が 実は 敬 虔 です)。
2 大切なことは、二男を自分と同じ様な人間であると観れるか、どうかだと考えます。
男は追い詰められて、何もない、多くのブタだけが居る。
ところが、ただの孤独の世界に唯一、残されていた「 考えるちから 」とそこから紡ぎ出された
「言葉」が何と男を浄化したのでした。
お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にして下さい。
3 家に向けて出発した息子を待っていたのは、父の愛情でした。何の連絡も入れず、帰宅の情報を与えていなかったのに、
まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて哀れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した(20節)、
とあります。
父は息子が考えていたように、単なる財産の持ち主ではなかったのです。価値あるものの所有者ではなく、「持つ」を超えた、つまり、Ousia【ある】を実現していたひとだったのです。
4 面白いのが、二男を迎え入れる事を耐えがたきこととして、家に入れることを拒絶した長男の存在です。
長男はお父さんを、二男が最初考えていたように、財産 ousia 、富の所有者だと考えているのです。
家の財産を無駄遣いして帰って来た二男を、何故家に入れなければならないのだ。
この論理的に正しい長男の主張は、わたし達の考えでもあります。
あるとは富を持つことだ、そして、富を持つひとがあるひとだ。お父さんはまさしくこのひとなのだ。
二男の360度回転した思考の転換、あると思われるものから真にあるものへの視線変更と
コントラストを成す長男の旧態依然?の考え方。
改心した二男の、わたしは『 罪を犯しました 』は あ る に関して洞察の大変換だったのです。
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