2020-11-29

時間 と 魂の存在 三回目の続き

 

 

時間と魂の存在              三回目の続きの前半

 

前置き:   書き出して、次に投稿します。 何か間違ったことを

言ってないか、自分の記事に眼を通す。

それを自虐的な感じで繰り返す日々ですが、

              時間と魂の存在とういうタイトルを観て、 《 と 》 の意味が

分からない、曖昧かも、と考え始めました。

 

時間と、言い出すとき 二つの仕方で時間を考えなければ

ならない。

量的な意味での時間 と 質的な意味での時間。

 

そして、わたしたちが慣れ親しんでいるのは、

量的な時間です。

単純に流れて行くものです。

 

この立場に立つ限り、魂の存在という表現は必ずしも、

続いて出て来る必要がない。

 

ただ時間が数えられることにおいて存在する、この限りでは

数えるところの主体としての魂の存在はある意味を

持つことが出来ます。

 

 

ところが、ここで特に、時間と魂の存在という表現とは

質的な意味を持つ時間と(この時間における) 魂の存在のことです。

 

問題は、この時間と魂の存在との結び付きです。以下、

魂の存在を厳密な仕方で理解される魂の善悪として考え、

             質的な意味での時間と魂の善悪が如何なる仕方で

結び付けられるのか、を考えるつもりです。

 

              そしてその手掛かりになる概念が  ハビトゥスとdispositio  です。

 

今日は、前置きが長くなりました。これだけで終わります。

 

続きます

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