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これまで と これから
1 物事を経験主義的に考える。この反対は、物事を観念的に考える。
で、ぼくは観念的に考える人、また観念的に生きている人を毛嫌いしている。何故か?
経験主義的に考える、この何処がいいのか?
経験主義的に考える、このことから直ちに何らかのリアリティに届く、とは考えられない。ただ、
自分の目を通して、また自分の知性や意志の発動を含めた意味での理性的に魂の働きを行使することは、
失敗に終わる確率が高くても 次に進むステップを創る。
リアリティへと向かう準備をしている。だから、自分は経験主義的に考える人間だと思っていても、
誤りに気付き、その誤りの原因を洞察する方向性をまだ、持たないのであれば、まだ未熟な
経験主義に過ぎない。
優れた意味の経験主義は、全体への志向性を持っている。
2 これに対して、物事を観念的に考えることの悪い点は、自分の立っている世界や環境の変化を顧慮しないで、獲得している知識を
ただあてがう(もしも、世界や環境の変化を重視する仕方で知識をあてがうのであれば、観念的に考えるにはならない)。
頭でっかち、自己の過去のデータを中心においてしか判断が下せない、新しい状況にある全体を見ようとしない。
3 そうは言っても、ぼくは何を言っているのか?
例えば、会社で働いているひとは、多くの場合、上司を持っていて、必ずある指示や命令のなかで生きている。
上司が具体的にこうして呉れという時、直ぐに、その発言背景を想定出来るか。
上司はただ彼の個人的な視点で指示を出している、イヤ、正反対に上司は会社全体の意思として指示を出している。
このどちらかを経験主義的に考えるちからを持つようにならないと恐らく、会社では生きていけない。
4 時間という題で、記憶に焦点を当ててみた。
自分のある、とは何らかの形をした記憶の存在に依る。それも、持続という性格を持つ記憶、
例えば、過去の経験の記憶、そしてこれまでの制度的なものの記憶。
更に、上の二つの根底に見出される文化の記憶。
これからもう少し、基礎的な考察に入りたいと考える。
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