1 やっと若松プロテスタント教会へ出していた
注文の本が自宅に着いた
去る1月15日に西日本新聞社 文化欄に比較的長い
記事が掲載され、購読を希望したぼくに直接、
出版社から送られてきた
若松の教会の弁明では、注文が殺到して、
捌ききれなかったらしい
著者の吉田敬太郎(1899〜1988)は、当時
有名な吉田磯吉の子供である
遠賀川界隈で船で石炭を運ぶ運送業の仕事をしていた
吉田磯吉は、そこからひととひとを執り成す親分、
九州一の大親分になって行く
これに対し、吉田敬太郎は経済的に恵まれていたが、
全体として波瀾万丈の人生を歩むのである
2 著者略歴を、解り易くした形で 紹介しますと、
次のように成ります
1899年 福岡県若松市に生まれる
1917 旧制小倉中を卒業
1923 東京商科大学(現一橋大学)卒業
1941 日本の真珠湾攻撃
1942 衆議院議員初当選
1945 三月 軍の弾圧により臨時軍法会議によって
投獄される
十月に 終戦により出獄
1949 若松バプチスト教会牧師
1951 若松市市長当選
1962 若戸大橋が完成
1963 北九州五市が対等合併
臨時市長を勤める
3 それで、汝復讐することなかれ とは
何を言っているのでしょうか。以下探究の
文です
1941年12月に、真珠湾奇襲攻撃で日本が始めた
アメリカ合衆国との戦争は暫くすると、旗印が
悪くなってしまう。
ところが酷い事に、東條内閣それに続く小磯内閣は、
追い詰められて行く日本の不利な戦況を国民に
知らせようとしないのです。
代わりに、高等警察の刑事、憲兵が国民一人一人を
監視する異常事態が起こります
国会議員である吉田敬太郎は、広い情報が入って来る為に、
近辺の人達に事実を知らせようとします。それは
公人の勤めだったのです
しかし、一人奮闘するも、遂に軍部に逮捕され一方的な
裁判のあげく福岡市内の獄中につながれてしまいます
4 ここ、獄中での七ヶ月間 吉田敬太郎は恐ろしい
死を経験するのです
以下次の記事をお待ちください
———間違いのお詫び
投稿の記事 カメーリア
で、21日は日曜日の
22日の間違いでした
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