🏖️
1 これまで、自己の経験を中心において記憶を考える考察、
また自己が関わった制度的なものを中心において記憶を考える考察、
これらの後に現在、これらの記憶の根底に見出されるところの記憶、
言うなら、文化を問題にしています。
広い意味での文化とは、その技術的な側面を表す文明と
メンタルな厳密な意味での文化に分けられました。
2 以下の記述は、文明と文化が切り離せないことを
語ろうとします註)。
例えば、1523年にスペインの侵攻を受けて滅んだと
されるペルー地域、南米の文明に顕著に見出される
技術とは、巨大な石を積み上げ、またそれらの組み合わせの
なかで出来た石垣
(日本の歴史に見るお城の曲線的な石垣とは違い垂直に立つ)
のダイナミックさに見られるのではないかと考えます。
大きな石材を、複数の何種類もの道具用石を用いて叩き削り、
そしてついには磨き上げていく。
石一面の然るべき箇所にその石を宛がい、平らにスベスベに
していく。
石材の柔らかい箇所にはそれに合った先が少し尖った石
(手で操れる石)を宛てて叩き削る、しかし、硬い箇所は
反対にそれを削れる、より硬直した道具用石を用いて叩き削る。
完成した石垣(現在遺跡として残る)は、デコボコが
全くなく、現代の精密なノコギリ以上の精度で
造られているのでは?と錯覚します。
3 この技術文明の中で、紀元前の昔から生きて来た現地の人々が、
当地で産出する金を目的に上陸したスペインの約200名程の
軍隊にたった約二時間で滅ぼされる出来事が
1523年に起きてしまいます。
侵略して来たスペイン人はピストルや大砲の武器を持っていて、人々は
そのちからに太刀打ち出来なかったのです。
4 上で述べている文明のなかで、息づいていた文化(厳密な意味での文化)とは、
太陽を信仰の対象とする太陽崇拝でした。
太陽の光は、作物に栄養を与え、土地を潤わします。
国王は太陽崇拝の儀式を司り、国王の廻りにはこの司式にこれに奉仕する
女性を含めた多数の聖職者が居たのでした。
迫害を受けて居住地のコルドバを逃げ離れ、山の峠道、密林を
約500キロ先まで逃げ、やっとその逃亡先で造営された巨大な石垣。
だから、その文明は実際にはまだ滅んではいなかったのです。
この石垣の凹んだ部分から、太陽が静かに昇って来る瞬間は
荘厳なものです。
日本での冬至、当地では夏至という太陽がピークに達する時に焦点を
合わせて、この石垣の凹みが造られているその天文学的な知識は
今日の現代人には驚きでしょう。
註)以下の記述は次のタイトルのビデオを観てまとめています。
新世界紀行 世界七不思議の旅編
インカの秘都 マチュピチュ
🗻
0 件のコメント:
コメントを投稿