2019-10-03
記憶と文化と呼ばれるもの 時間 15回目
1記憶の存在へ眼を向け、林のような世界から何かを得ようして来ました。
これを読んで下さっている方のなかには、何で知覚、見る see の世界に向かわないのか、
記憶は知覚より、マイナーな世界ではないか?
イギリス経験論のロック、ヒューム そしてこの経験論を理性の視点から完成へと導いたと考えられるカントという大きな流れからすれば、傍流しかも細い流れではないか、と
いう想いをお持ちかも知れません。
これに対して、自己のあるという視座に執着しますと、必ずしも傍流ではない、そして
記憶の世界が知覚の世界よりも重要だと考えます。
見るは、それを見ている世界のあることに関わります。もっと言えば、科学的な世界に
関わるものです。
しかしながら、自己のあるという視座を前面に出しますと、見ることは、それだけでは
自己のあるというその点には、広い意味では関わっていると言えても、厳密な意味では
関わっていない、と考えます。
これから、記憶理解の深まりが自己のある理解の深まりへと繋がる
思考を続けます。
2 記憶ということで大切な概念は、持続、続くでした。
これまで、過去の記憶そして制度的なものの記憶を取り上げました。
実質的には、現在まで続く過去の記憶 の意味そして、
現在まで続く制度的なものの記憶の意味を考えて来ました。
3 そして新しく取り上げる記憶は、文化と呼ばれるものです。
この広い意味での文化をどの様に絞るか、が差し当たって問題になります。
注意点が有ります。ここでは、あくまでも記憶との関係で文化が探究対象になります。
つまり、わたしたちが考えがちなそれ自体的な意味での文化は、考察の外に
置かれます。
4 わたしの絞り方は、
あ)広い意味での文化を、文明から区別する。
(ここでは、広い意味での文化に文明が属する、を前提しています。)
い)更に、文明を切り離した仕方で、また更に文化を二つに分ける。
そして、記憶にとっての厳密な意味での文化を定める。
こんな風になります。
🗻
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