&&&&&&& しばらく休んで中断していました。ハビトゥスについてのわたしが提起している問題とは
次のこと、トマスの提起しているsubstantia ipsa habituumとは何を言っているのかでした。私はその ipsa という強意を表わす言葉が解らなかったのです。だがこれから、そのことを明らかにする積りです。
1善の視点
四つの質についてのアリストテレースの考え方を要約すれば、
第一の質がディアテシスとヘクシス、第二の質が生れ付きの能力とその無能力、第三の質が受動的な質、諸々の状態、
そして 第四の質が形状や形姿という区別において語られている。【この次の投稿にアリストテレスの第二の質と
第三の質等々を記載します】
2 問題となるのは、トマス・アクィナスの考察の独自性として ハビトゥスの存在がある何らかの《善》の意味を持って
いるということである。
驚かされるのだが驚くべきことに、これからの考察とは、
アリストテレースの『カテゴリアイ』の持つ自然学の論理学的な性格を越えてしまうように思われるのである。どうしてそんなことが出来るのか。全くの革命的な事態です。
何故ならば、自然学Phisycaというわれわれに取ってまだ理解しやすい場面から、形而上学 Meta phisycaという難しい場面へと新しい考察が始まろうとしているからです。
3 いまトマス・アクィナスの説明に耳を傾けてみましょう。
トマスの質の理解とは「存在するもの」についての質という意味で「存在するもの」におけるある『様態 modus 』という洞察である。
しかし、様態とはある測りに基ずく限りでの『限定 determinatio 』を意味する。
トマスはこの様態として、「存在するもの」における≪類 genus ≫と≪種 species ≫ を考える。そして その本質的な
規定が『実体的な存在』と『付帯的な存在』 である。
例えば、(多くの動物がいる時)ひとが現われた時に、≪これは人間である≫という言表をすることがあります。またそこから 例えば、≪この人間 女性の山野さんは色が白い ピンク色だ≫という言表を私たちはすることがあります。
このうちで、ハビトゥスとは如何なる質を持つのかという
探究にとって意義を持つのは後者の『付帯的な存在』です。
今日付加価値の高いという言い方をしますが、その根底にある考え方です。
4 単なる類としての人間ではなく、《この》人間の存在は、他に 例えば、量的な存在、そして四つの質的な存在等の
様々の『付帯的な存在』を持つことが出来ます。そしてこの≪持つことが出来る≫とはそれらに≪与かることが出来る≫に他なりません。
そして、この【分有】という視座がトマス・アクィナスの
Metaphisyca の論理的な特徴を成し、アリストテレ-スの
Phisycaの論理である言表•言い暴くこと と違いを作って
いると考えるのです。
しかし、もう少し語らなければなりません。
今日はここまでです。