(前回続き2から始めます)
1次のように考えてみました
よく経験することの中で、
次の言語の言表に与かることが
起こりますが、気付いて居られる
でしょうか
美しい、しかし、その美しいものは
何だ
これは、あるものは美しい、と
いう表現が、述語部分の
美しいに集中、その後に主語に
気が赴く場面である
普通の論理が、壊された形で
あるものは美しい、が成り立つ。
例えば、美しい、あの演技は!と
驚く場面である!
普通の論理であれば、あるもの
(複数)は美しい、の一部面で
しかない。驚きのない場面で
ある
2 さてハビトゥスとは何かを
問うトマス・アクィナスの態度
とは、「あるものがハビトゥスで
ある」とは何かである
あるもの が消えたかのように、
「 ハビトゥスである 」、
とは何であるか
を問い正して行く
但し、規定された意味を持つ
ハビトゥスの主語としての
包括的なあるものについての
考察は、神学大全 第二ー一部
51問題から54問題で行われる
共通的な意味でハビトゥスで
ある、とは何であるかを
答えるもの、 これが
substantia ipsa habituum
であろう
続きます
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