🦆嫌いな言葉
宗教という言葉程、嫌いな言葉はないです。
これまでの投稿における、二つに分ける考察の仕方で、批判してみます。
1 理性、理性的という視点から、宗教という言葉を火に焙ってみると、日本だけではなく
何処の国でも、宗教は非理性の領域に入るのだろう。
宗教は非理性的なカテゴリーに入る。
2 理性、理性的と言葉を使うと、非理性また非理性的という言葉と
境界を引かなくてはならない。
理性のギリシャ語の語源 logos に さかのぼる。語る、 言葉 から来ている logos は、
その反対が
alogos である。この意味は 言葉から離れた存在である、感情や情念を現わす。
それでは、宗教は非理性的なカテゴリーに属する、と私が言う時、
a‐logos の感情や情念に 属するのかと言えば、勿論、違う。
宗教は厳密には感情ではない、そういった側面がどこか、認められるとしても。
3 ロゴスは理性的なものであり、そしてこの理性的なもの産み出す
魂の存在に眼を向ける時、理性という言葉に出逢う。
alogos の産地が感覚であり、直覚的な感覚と欲求的な感覚に分けられる。
今の時代の特徴を表すalogos 的な言葉が、例えば欲望で代表される。
🦜 株が3万円を超えたって!!、さあ、いつ大暴落するか、楽しみだ!
🦜 株価が1万に成ったら買おう、人から借金して!
差し当たって、こうした感覚のレベルでの把握と欲求を超えて
働く知性や理性の働きを反省してみます。
考える、計算する、推測する、意志する、愛する――――――
数え切らない程の理性の働きが見出されます。
4 宗教という曖昧な言葉が、あるひとに接近するのは、
上で言及した理性の働きが上手く行かない時だと考えます。
信じて生きてた理性の働きに疑問符が出て来る時です。
産まれつき、自然本性的なものとして頼りにしていた自分に
絶望するのです。
しかも、この絶望は自分を取り巻く環境世界を切り離しては
考えられません。働く会社での信じられない悪、自分の家族
での耐え難い悪、簡単に言えばある種の地獄との出遭いです。
5 自己を持ち続ける、善きものとして自己を守って行くことが
出来ないのです。もう死んだほうがマシだ。
こういう非常事態、内面的な非常事態、加えて、移ろう時間の虚しさ、
空虚さを経験してしまうのです。
宗教が有意味に見えるようになるのは、
宗教が理性を超えている、しかも理性よりも優れていると
考え始める時です。
気をつけてください。
ある宗教家が上から、ヒトを、人の理性を見下すように嗤う時
彼はこの世を良く知っている人間として現れます。
6 今日は、感覚、理性、そしてその上にあるように見える宗教という
階段型の世界を考えてみました。
理性と信仰を決定的に区別してしまう世界です。
もしも、あるひとがいろんな意味で恵まれていて、理性だけでok
なら、理性だけで一生、全うするならば、宗教という世界は
理解不能な彼岸の世界でしょうね。
😁続きます。