論理 あるいはロゴスが、トマス・アクィナスの
御顔から浮かんで来ます。
でも、ちから強さが、もっと良い言葉かも。
まだ、20位の若さで、最初の著作である
De ente et essentia を書きます。
彼が唯一、哲学者 と呼んだ アリストテレスの
深い理解なしには書けなかったこの著作を
現在の大学生の年齢で書いたというのが
ぼくの驚きです。
論理 あるいはロゴスが、トマス・アクィナスの
御顔から浮かんで来ます。
でも、ちから強さが、もっと良い言葉かも。
まだ、20位の若さで、最初の著作である
De ente et essentia を書きます。
彼が唯一、哲学者 と呼んだ アリストテレスの
深い理解なしには書けなかったこの著作を
現在の大学生の年齢で書いたというのが
ぼくの驚きです。
1ひとが生きると言う時、大切なことは、自己が自分を支える言葉を
持つことでしょう。
この意味で、言葉の重要性を念頭に置いて生きることは、そこに価値を
置かないで生きている多くの人間とは大きな違いを作る
ちからを持つことに繋がります。
言葉を大切にして生きる、この事が哲学の一番基本的な意味です。
そしてもしも、この事を長い人生において、徹底出来たならば、
そのひとの顔に大切にして来たその言葉自身が刻印されます。
正直である、柔和である、叩かれ強い、弱音を吐かない、……………
ひとの顔は自分が大切にしている言葉に変わることが出来るのです。
そして、初めてそのひとと逢う他の多くの人間に取って、
そのひとと真面目に付き合うべきか、どうかを考える
有効な判断材料に成るのです。
歳を取ったら、顔に責任を持つべきだとは、
上のことがベースにあると考えます。
2しかしながら、恐らく、自己が自分を支える言葉を
見つける、とは一生の問題なのでしょう。
時間が必要なのでしょう。
湯川秀樹は、ひとの性格や人柄は生きている環境や年齢に
よって変わると言っています。
実際、自己を害する周囲の人間や制度、また文化の存在によって、
ひとは弱体化、劣化します。
これに打ち克つにはどうしたらいいのか?
自己の弱体化と劣化から身を守るとは?
3最後の砦と言うべきか、どうか確かではありませんが、
話を、ひとが考えながら生きている日々の日常に戻しましょう。
ここで、自己が自分を支える言葉を見つける、と呼ばれる際に
浮かぶ言葉に集中します。
すると、お金や社会的地位、評判という言葉ではなく、
そこから離れてある思想や哲学という言葉がやって来ます。
4そして、私が思想ではなく、哲学💝を、と言う時、
今の困難な時代を乗り切り、乗り越えるちからは思想
と呼ばれるものにはない、と考えるからです。
何故なら、思想の決定的な致命点は、「現実」と
呼ばれる存在を直視していない、と考えるからです。
もし直視するちからと意志があれば、
それは哲学という呼称に変わります。
私が思想と呼ばれるものを軽く観るのは、そこに
現実逃避的な悪しき意味でプラトニズムの匂いを
感じてしまうからです。
しかしながら、ここで私は弁明をしてから進むべきでしょう。
あ:今の困難な時代とは何か、どのように認識しているのか?
い:「現実」を直視するとは何を言うのか?
現実とは何か。
続きます☺
■二つに分けて考える、そして生きる
1二つに分けて考えることが大切なんだ、これが、昨年四月から
続けている自己主張です。
そして、今も自分の思索と生きることの出発点です。
今日の話は思想と哲学を区別する区別の仕方です。
2思想と哲学と呼ばれる言葉は、日本では、まだ区別されないまま
使われています。
自分の思ったことを表す思想という言葉は、立つ位置が曖昧で、
自己の何らかの情念から生まれたものであったり、また自己の生きる
苦しみから離れる為に何らかの目的なしに書かれることがあるように見えます。
また、時代が変わると何かアナクロな考え方に落ちぶれてしまいます。
一種の気晴らしに属します。
そして哲学という日本語も、ヨーロッパ近代語、またギリシャ古典語や
ラテン語を読む正確度が以前より高くなり、ほとんどが文献研究の意味で
用いられています。
哲学史の研究者というのが、今日哲学専攻の人間のことでしょう。
素人のひとが哲学に関心を持つことに冷たい、そういう方向性を
持たないのが、哲学専攻の世界だと思われます。
そして暗黙的に、哲学はこの世の役に立たないものさ、教育
従事者には大切だけど、と宣伝しているように見えます。
2昭和35年1月に出版された湯川秀樹「旅人」の中で、秀樹さんは
一中そして三校の時の自分のことを、
『不調和なアンバランスな人間だった』と正直に告白しています。
社会の動きから離れ、本に夢中になっていた。
大正8年に中学入学、そして大正12年三校入学の秀樹さんは、
最初から物理学に関心があったのではない、三校のその頃、
哲学に関心があったと告白します。
(引用です……………)
三校の図書館で、最初、熱心に読み出したのは、哲学の書物である。
老荘の哲学から西洋の哲学へ、私の興味は移っていった。
新カント派の全盛時代であった註釈。一方、ベルグソン哲学も人気があった。
しかし私は、当時の多くの青年と同じように、西田哲学にもっともひかれた…………。
3こうした秀樹さんの回想は、大正デモクラシーの時代のおおらさに
裏付けられたものでしょうか、今日からは想像出来ない遠い世界に見えます。
24時間営業を表示した看板から窺われる「役に立つ」、「便利」
そして「効率」を、これまで最大限に求めて来ている戦後社会が
終わろうとしています。
だが、それを越えた新しい価値についての発言はまだ聞こえないです。
私はむしろ、過去の哲学者の豊饒な知恵に眼を向けて生きた方が良いと考えます。
以下、このことに少しだけ寄り添った話を考えています。
続く🐱
◻痛みが続く(続くとは、の補足)
1 続く という言葉は二つに分けて理解する必要があります。
(1)続くの主体、主語に当たるものが終われば、つまり終点に到達すれば、 続くというそのこともまた、全体として終わる。
(2) (1) とは異なり、続くがあると一つになった仕方で融合している。
この二つに分けた仕方で、前回 12月 20 日分の考察は、上の(2)に焦点を当てました。
確かに私が出していた人柄や人格の例の場合、主語に当たる中村さんが 死んでしまえば、その続くということが終わります。
中村さんは死んだから。
言葉の上での表現が、
『中村さんはおっちょこちょいである』、が
『中村さんはおっちょこちょいで あ っ た』
に変わるのです。
ところが、会社の株式上場の場合、上場が終わっても、
必ずしも会社がなく なる訳ではない。
3 『富士山はあり続いている、富士山はある』の場合、確かに富士山がなくなる時には、『富士山はあるのではない、富士山はあった』、になります。
だが、よほどのことがなければ(この世の終わり?)、
富士山がなくなる、とは考えられない。
何故なら永続するものだ。永遠の存在だから。
4 さて、残していた例、
左の肩が痛いはどう考えたら好いのでしょうか?
人柄や人格という在り方と同じようにその続く、つまり
「痛い、痛む」は考 えることが出来ます。
痛みの続くことは、ネガティブな存在の痛みと一つになっているのです。
5 ここで、大切なことは痛みの存在を病気の続くこと、つまり病気の dispositio ではなく病気の habitus として考える視点に立つことです。
湿布薬を張り続けたら、直った、一度整形外科に行って診察を受けたら、痛みがなくなった、こうした以上の困った事態を問題にすべきです。
新しく、どうしてという痛みの原因が関心事になって来るからです。
そしてほぼ同時に、左の肩の痛みという魂の受動・感情に不安が
付き纏うようになります。
癌のせいで、肩が痛いのかも?
これまで、生きて行くことが無難だったひとに、自己をどうやって
持続させたら良いか?という難問が浮かんで来ます。
もしも、癌だったら死が迫っているはずだ。どうしたらいいのだ。
👋
🔳前置き◻
何時の時代にも、父親、母親とその子供(特に長男長女)との、ものの考え方が
違うことが起こります。
そして、その亀裂は子供の将来の進路を定める時に、最大になってしまいます。
この原因が一つが、親が子供が見えていない、ある意味で魂を観るちからが
ない点に有ります。
にもかかわらず、親の方がちからで、押し通してしまう。
今日のお話はこの延長上に有るものです。
私は、育児は躾をする、しかも自信を持った子供を創ることが
大切だ(だから、子供に自信を持たせ社会に送り出そうと
努めなければならない)と考えています。
ところが、主人公の父親琢治はそれが出来なかったようです。
6 湯川秀樹の作品「旅人」の中に、エピソードと命名された特別な
章があります。今取り上げているのはそこでの話です。
湯川さん一人称の描写ではなく、意図的に三人称の挿話として
つけ加えられています。
実に小川一家を理解するには、大切な箇所です。
秀樹がまだ当時の中学生、一中の時の話です。一中は明治3年、
日本全国にさきがけて誕生した中学です。
7小川琢治と秀樹の母親との葛藤が終わりを迎えてしまうのは、
琢治が当時の一中の森校長に息子の進路を相談する時です註)。
それは、偶然の出逢いから起こりました。
以下はそのままの引用です。長い引用です。
…………ある日琢治は夕方の研究室を出た。赤れんがの
古めかしい色を意識しながら、いちょう並木の間をぬけて百万遍に出る。
と、いきなり背中から声をかけられた。
『小川さん』
琢治はふり返った。小柄で品の好い紳士が、そこに立っていた。
『あ、森さん』
一中の校長森外三郎氏だった。
『いま、お帰りですか?相変わらずお忙しくて…』
『いや』
肩をならべた。
『子供がいつも、御厄介をかけています』
『いやいや、いいお子さんで…』
『…………』
琢治は思わず相手の顔をふり返った。森校長の口調が、率直で、
に明るかったから
8ふと、琢治の中に、一種のひらめきに似たものが走った。
ーーーそうだ、この校長に相談してみるのもいいかもしれない。
………少し飛ぶ🐱飛ぶ🙀飛びます👮…………
『あの子を、どういう方面に進めたらいいかと、実は少し迷っているのだが』
『どういう方面に、というと?』
『つまり、普通に高等学校から大学へ進ませようか、それともーーー
ーーーー
それともどこか、どこか、専門学校でも選ばせようかとーーーー』
森校長は、すぐには返事をしなかった。ふと空を見上げるようにした。
夕日に染まった雲がひとすし、うすあさぎの空をバックに刷きたてた
ように長く伸びていた。
9『小川さん』
と森校長は言った。
『なんでそんなことをあなたが言い出されるのか、私には納得がいかない』
『………………』
『秀樹君はね、あの少年ほどの才能は滅多にない』
『いやあ…………』
『いや、待って下さい。私がお世辞でも言うと思われるなら、私は
あの子をもらってしまってもいいです』
『……………』
『私はあの子の教室で数学を教えたことがある。秀樹君の頭脳というものは、
大変、飛躍的に働く。着想が鋭い。それが、クラスの中で、
とびはなれている。ほかの学科については、成績表を見る以上にくわしくは
知らないが、数学に関する限り……こういう言い方はお嫌いかも知れないが………
天才的なところがある。これは私が保証する。将来……、
将来性のある子だ。あなたが今まで、それが分からずにいたとは
思わないが…………』
【旅人】158頁ー161頁
註)森外三郎校長は、秀樹が旧制中学校の時だけでなく、三校での
旧制高等学校の時にも校長先生であった。三高入学一年の時の
学生ストライキを終始出来なかった金子校長の転出後の新校長が
森外三郎氏である。
小川秀樹に、人生の中で大きな影響を与えたひとであった。
🌝前回、「持続するもの、人柄と人格 (3)」
に誤りがありました。
進路の決断を三高の時にしてしまっていました。
、
前回の記事に大きな誤りがありましたので投稿しています。
湯川秀樹の父親の名前、小川琢治を小川琢二にして
しまっていました。
その間違いの回数は計五回以上で、恥ずかしいことでした。著者の
湯川さんと皆様にお詫びいたします。コロナウイルス対策に身構えていて、
他のことに集中力が行かなくなっている?
年末に、国会議員で53歳で亡くなられた方の記事、簡単な記事を読んで、
不信に思ったのは、志望理由が書いてなかった、ことです。幹事長の仕事を
なさっていたので、衝撃が大き過ぎる?
太平洋戦争の時の報道管制を想い出させるニュゥスでした。
これから、日々自分の内にある想いそして幻想、甘えを落として行く日が
続きそうです。
そしてまた、耐え忍ぶ日が続きそうです。
大人になってから、自分が生きている間に戦争は有るだろうか?と
考え続けて来ました。
戦争はないかも知れない、だけど、眼に見えないウイルスとの
闘いがこれから続きそうだ、が答えです。
4 湯川秀樹の父親である小川琢二は明治3年の生まれで、歴史的には
明治27年、28年の日清戦争が起こる前が青春時代になる。
だが、彼の人生に大きな影響を与えたのは、同24年10月に起こる
濃尾の大地震である。
震度7の内陸地殻内変動による巨大地震で、死者数は7000人を
越えている。
だが何と、琢二は、自然の猛威、恐ろしさを確かめようと
震災地へ出向く、ひとが止めるにも拘わらずである。
今日の私達は好奇心のことを考えるが、琢二の場合そうではなかった。
こうした経験から歩き回ることが、そして地質に関する標本を
集めることが、一年中の仕事になる。
この地理学の専門家が、京都帝国大学の研究室に入ったのは
明治26年 9月 である。
5 琢二が同郷和歌山の幼なじみの小雪と結婚するのが同
27年の秋である。
秀樹は、美人で、頭の良かったひとだと言っている。
亡くなる時、遺言として自分の脳を解剖して下さい、と頼む。
小さい時にブランコから頭から落ちて後遺症がずっと
残っていたか、どうかを確かめたかった、そう秀樹は言う
(しかし、解剖結果、後遺症は残っていなかった)。
6この理性的な母が、父琢二と衝突する場面がある。
青春期の秀樹の進学、京都の一中、三校への進学の後、父は秀樹を
他の長男や二男と同じように、大学に進めるべきか、どうかで迷う。
その大きな理由の一つは、『秀樹は何を考えているかわからない 』であった。
そして、琢二は秀樹を専門学校に入れようとする。みんな、大学にやると思うことに琢二は懐疑的になり、それぞれにあった人生を考えてあげるべきではないか、と悩むのである。
これに対して、琢二の妻は猛反対する。
『どうして、みんなの子供を平等に扱わないんですか?』
あと一回続きます
ある新聞の読書欄の記事に、日記帳の話が載っていました。
昨年の今日は何しているのかを知る事が出来る様に、五年ものの
日記帳を買いました。———————————
僕はふと、自分も同じようにしようかな、と考えた。
今年までの三年ものを使っていたので、新しく買う必要があった。
しかし、五年先まで生きているか、どうか不透明なので、三年もので
良いかも。でも、空白が多かったな‥‥‥‥‥‥‥‥‥
結局、実際に購入したのは一年ものの、持ち運びに便利な日記帳だった。