■二つに分けて考える、そして生きる
1二つに分けて考えることが大切なんだ、これが、昨年四月から
続けている自己主張です。
そして、今も自分の思索と生きることの出発点です。
今日の話は思想と哲学を区別する区別の仕方です。
2思想と哲学と呼ばれる言葉は、日本では、まだ区別されないまま
使われています。
自分の思ったことを表す思想という言葉は、立つ位置が曖昧で、
自己の何らかの情念から生まれたものであったり、また自己の生きる
苦しみから離れる為に何らかの目的なしに書かれることがあるように見えます。
また、時代が変わると何かアナクロな考え方に落ちぶれてしまいます。
一種の気晴らしに属します。
そして哲学という日本語も、ヨーロッパ近代語、またギリシャ古典語や
ラテン語を読む正確度が以前より高くなり、ほとんどが文献研究の意味で
用いられています。
哲学史の研究者というのが、今日哲学専攻の人間のことでしょう。
素人のひとが哲学に関心を持つことに冷たい、そういう方向性を
持たないのが、哲学専攻の世界だと思われます。
そして暗黙的に、哲学はこの世の役に立たないものさ、教育
従事者には大切だけど、と宣伝しているように見えます。
2昭和35年1月に出版された湯川秀樹「旅人」の中で、秀樹さんは
一中そして三校の時の自分のことを、
『不調和なアンバランスな人間だった』と正直に告白しています。
社会の動きから離れ、本に夢中になっていた。
大正8年に中学入学、そして大正12年三校入学の秀樹さんは、
最初から物理学に関心があったのではない、三校のその頃、
哲学に関心があったと告白します。
(引用です……………)
三校の図書館で、最初、熱心に読み出したのは、哲学の書物である。
老荘の哲学から西洋の哲学へ、私の興味は移っていった。
新カント派の全盛時代であった註釈。一方、ベルグソン哲学も人気があった。
しかし私は、当時の多くの青年と同じように、西田哲学にもっともひかれた…………。
3こうした秀樹さんの回想は、大正デモクラシーの時代のおおらさに
裏付けられたものでしょうか、今日からは想像出来ない遠い世界に見えます。
24時間営業を表示した看板から窺われる「役に立つ」、「便利」
そして「効率」を、これまで最大限に求めて来ている戦後社会が
終わろうとしています。
だが、それを越えた新しい価値についての発言はまだ聞こえないです。
私はむしろ、過去の哲学者の豊饒な知恵に眼を向けて生きた方が良いと考えます。
以下、このことに少しだけ寄り添った話を考えています。
続く🐱
0 件のコメント:
コメントを投稿