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0 躰の視点で、そして健康の点でまた若者に戻れないのは
当たり前なので、これは考察の外に置いてしまいます。
それでは、ひとは身体と魂において成立っている、と
言う場合の魂の点で『若者になれる』、と考えれば
良いのでしょうか?
1 すべての若者が、そうであるとは言えませんが、
若者の特徴は、諦めないことだと考えます。
今日の話は諦めないことの大切さです。
わたしたちも諦めない人間に成ることによって、
若者になれる?
しかし、どうやって? 死が近付いていて、
それが手を振っているのに?
2 この世で嫌なヒトを挙げてみますと、いろいろ出て来ます。
つまり、こういうヒトは嫌いだ!
いつも、自己中心にしかこの世を観れないヒト。
いつも、他人中心にものを観ようとするヒト。
いや、もっと有る!
今日は、でも、この二つだけに話を絞って
考えてみます。
3 わたしの考え方を最初に出して、それを弁護する
考察の仕方を取ってみます。
いつも、自分中心にしか世の中を観ないヒトも、
他人中心にものを観ようとするヒトも、どちらもダメです!
それだけでは、どちらもダメ。
4 どうして、そんなことを言うのか?
他人中心にものを観ようとするヒトは良い人ではないか?
多くの場合、他人中心にものを観ようとする時、そのわたしが、
悪い意味での他人中心に、もっと言えば、この世の在り方に
合わせてものを観ようとします。
この世の在り方とは、多くの人が考えたり、それに追随したり
することにおいて成立っている時・流れている時です。
5 それでも、他人中心にとは、エゴ丸出しのヒトの生き方より
良いではないか?
多くの場合、わたしたちはこの世の在り方に合わせて
他人中心に生きています。
その分、どこか、自己を放棄しながら生きています。
そして、この生き方の根底に流れているものが自己に対する諦め
(=諦観)ではないかと考えます。
6 ところが、この意味での「諦め」に付帯しているものがあります。
それが、『自分は何かを知っている』という思い込みではないでしょうか?
これ迄の長い人生を生きて来た。
それで様々なことを、自分は経験して来た、
いろんなことを知っている。
そして、自分の限界も判っている。
社会的な地位も、子供達からの評価も。
自分は敗北者だ ーーーーー。
わたしは自分のことを知っている!
7 しかしながら、この『知っている』がこの世に
向かって行くことを弱め、諦めの世界に自分を
閉じ込めているのではないでしょうか?
この世は、敗者である自分以上の存在に見える!
世の中が順調に流れている時は、諦めの生き方が
自分の桎梏には見えなかったのです。
でも、今は、その桎梏を壊さないといけません。
壊してしまわないと、自分の命も危ない時がやって来ているのです。
そして何とかして、その桎梏を壊してしまった時に、
そのひとは「若者」になっているのでしょう。
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