材料は、🐙、卵二個、小麦粉、
野菜がタケノコとほうれん草、あと
畑から取って来た名前の判らない野菜の葉っぱ。
で、二回目の挑戦にしては、
一回目より美味しい感じです。
塩胡椒の代わりにニンニクの
振りかけを使い、味をしめています。
朝倉市の中心から北へ行って約45分、秋月の乱で知られる
秋月、そこから更に東へ行くと
美奈宜の杜(みなぎのもり)と言う 別荘地?が開ける。
冬の寒さに耐える為か、ある家にはストーブの煙突、
黒っぽい煙突が見える。
その為か、ストックされた短い材木が道路から
見える建物もある。
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送信日時: 2021年4月26日 20:13
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件名: 福岡県の軽井沢?
1 知性 と 感覚を区別する考察において厄介な問題が有ります。
Imageという言葉を何処に置いたらいいのか?
どういうことかと言えば、 image と呼ばれる存在は、
感覚的な働きにおいて見出されます。
然しながら、この存在はまた知性的な働きにおいて
も見出す事が出来ます。
2 image を 感覚のちから、知性のちからと同じような視点で、魂のどの様なちからかと問うてみますと、
想像力 imagination がそれに当たります。
今までの僕のブログ記事の考察手法である
『二つに分けて考える』を適用して
image―想像力を再把捉しますと、
想像力は二つに区別されます。
感覚に近い想像力 と 知性に近い想像力です。
3 朝の目覚めの音楽ということで、グリーグの
ペールギュントの音楽とベートーヴェンの「田園」をよく聴きます。
グリーグのペールギュント 第一組曲は、僕の
小学校卒業式の開式の音楽でした。二列に
並んで、合わせて三クラスの生徒が会場の講堂に
入って行く際に流れた、如何にも朝 (=別れの朝?)という音楽でした。
この音楽を聴くと、今でもその場所、講堂の中の
Image が生き生きと浮かんで来ます。
4 難しいのは、この想像は、感覚的なimage に属するのか、それとも知性的な image に属するのか を定めてしまうのが、簡単ではないことです。
恐らく、人生において初めての別れ・離別を
経験したことが根底にある為、自分の
心の中で知性的な image に
算入されているように考えています。
その後の卒業式は、中学であれ高校であれ
記憶にないです。
5 上の話しは、耳から入って来る音楽を念頭に
置いて image ― 想像力を考えてみました。
全体として理性とは何かを考える端緒ですが、
次回は 目に見える世界で image ― 想像力を
考えてみます。
🙁😧🙁
下の子が小学校時代、五年生と六年生の時に
通学した学校の建物が池の向こう側に見えます。
一年から四年までは、旧い筑紫野市役所があった
建物近くの小学校まで約40分掛けて通学しました。
天拝小学校と言う名の学校ですが、管理的な匂いの
感じがない学校で良かったです。
その次女は東九州で、三歳の子を幼稚園に預けて
職場へと行っています。
👩👩👩
昨日提示した写真を構図を少し変えて
再登場させています。
左側から少量の光を入れ、花瓶の色が藤の花の
緑とあるコントラストを成す。
しかも、左に見えるツツジとモッコク、赤色紅葉が
これから先に咲き出すはずの藤の花と
全体的なコントラストを成しています。
昨日提示した写真を構図を少し変えて
再登場させています。
光を入れ、花瓶の色が藤の花の緑と
コントラストを成す。
しかも、左に見えるツツジとモッコク、赤色紅葉が
これから先に咲き出す藤の花とコントラストを
成しています。
新しい年度に入って、制度的なものが変わりますが、
僕が気付いたことを二つ。
Radio の朝平日6時半から始まる中学生の
基礎英語が、英語だけで
15分通す試みです。
複数の先生が対話的に15分を生かしています。
先週、
Is this program boring ? という表現が出てきて、
先生の一人が Yes. と笑いながら答えていたのが
良かったです。
他の一つは、土曜日限定みたいですが、
小学生向けの基礎英語が始まりました。
面白いと思ったのは、game です。
一人が何かを思い浮かべる。
Is it big ? No.
Is it red ? Yes.
Is it round ? Yes.
で、You are thinking of APPLE .
Right. でした。
1 カトリック世界の聖人で、思索においてとても深い
トマスを、普通のひとに生かすことの出来る可能性はないか、
こうしたチャレンジ精神の中で生きています。
主著である『神学大全』の日本語の翻訳(創文社発行)が、
36冊にもなるトマスを、現在、経験主義の眼差しで観て行く、そして
それが行き詰まる時は新しく考え直せば良い、と考えています。
2 しかし哲学的な思索を経験主義を通して続ける、
しかしながら、そこから何らかの経験主義的な神学?が
打ち建てられることはないのでしょう。
存在そのものとしての神の 恩寵gratia に与る信仰
というものは、上の哲学の延長には位置しないからです。
多くの哲学研究者は神という言葉から離れています。
そしてその言葉が嫌いな思索家は、理性主義一辺に
走ります。
神はないと主張するだけでなく、また言います。
神は人間が創り出したものだ。しかも、
その神にヒトが支配されている!
しかしながら、この理性主義という 『信仰 』は
必ず、何らかの挫折を伴うと考えます。
ひとは理性への全き信仰という刃に、自ら傷つくことを
覚悟しなければならないからです。
3 ところが、逆に、人間のコア部分である理性(=自己)を
否定的に考えるひと達が存在します。
理性 、意志を含めた理性の存在を価値のないものと見做し、
神(のみ)への信仰を強調するひと達です。
プロテスタントと呼ばれていますキリスト教の
基本的な考え方です。
そして、神の存在の全きさと人間の罪深さが強調されます。
つまり、神がすべてであり、人間は無であろう。
4 この二つの両極端の思考法に対して、
トマスの優れた思考方法は、次の点にあるのではないでしょうか。
神の存在の輝きは理性の明るさと矛盾しない。
またこう言っても良いです。
理性の明るさの存在が、神の存在の輝きの受容、
つまり私達の信仰を準備する!
しかし、ひとはどうやって、理性の明るみに至るのか?
4信仰とはただの行為ではなく、ひとのあること・ひとの人格の
成立に関わっている重大事です。
そして、人格の存在とは必ず、理性の自己への立ち帰り
・自己認識を前提しています。
自己を何らかの形で把握する、このことがなければ、
まだ人格の意味は正確には出て来ません。
その人間がまともか、どうかを知ろうとするなら、
自己認識を持っているか、どうかを観たら良いのです。
そして、この自己認識をhabitusという持続の在り方から
深く把握し直しますと、実は、自己認識の完成が理性の完成に
到達することなのです。
6 自分は足りない人間だ、不完全な者だ!という認識を
持続的に持ち続けることが出来るひとが、実は
神の恵みに与ること、神への信仰への
すぐ手前に居るのです。
この事態を、理性の明るみと考えます。
🐸🐸🐸
1忘却という言葉は二つに分けて考えることが出来ます。
何かが忘れ去られる、忘却が軽い意味を持つ場合と
忘却が重たい意味を持つ場合です。
前者の場合にはその忘却が許される、ところが、後者は
その忘却が決して許されない。
例えば、一昨日に茄子の種を撒いたことを一週間後に私が
忘れたとしても、咎められる事はない。ところが、マスク無しで
公共の場所へ行くことは現在のところ、許されない。
許されないだけでなく、またそのひとの人格的な存在が疑われることが
起ります。その忘却が周りの人たちにとって極めて有害となるからです。
2 忘却を、ひとという視座から拡げて法人的な世界に関して
考えてみます。
何か話が飛躍するのですが、企業、地方自治体、国家、――――
数え切れない法人が有ります。
これから取り上げるのは、カトリックの話です。
3 実は、カトリックの世界で 13世紀に活躍した
トマス・アクィナスが今日では忘却されているのです。
今日、カトリックの神父の多くはトマス・アクィナスを
読まないで司祭職を為さっておられます。
福岡市にある教会は、聖トマスが属していたドミニコ会が
運営するものでした。この運営がそれまでの管区とは
異なる管区のドミニコ会の運営に代わりました。
韓国から司祭や助祭が来られ、一度だけその新しい
御ミサに与った事があります。
パーティーの席で、神父とトマス・アクィナスの話を
しましたが、読んでいないとのこと。
4 トマス・アクィナスを愛から離れた哲学者また
神学者だと思い込んで、読まないのだ、つまり忘却されている?
愛という言葉に関して、大切なことは次の点だと考えます。
愛の存在とは、相手に対する信頼だけでなく、更にまたそのひとに
ある希望を見出すのでなければなければならない。
相手の現実性を受け入れるだけでなくまた、そのひとの未来への
ある信仰がなければ愛はまだ、充実した存在とは言えない。
したがって、こうした信頼と希望はハビトゥスという
持続的な存在の視座に与るものでなければなりません。
行為主義的な一過性のレベルでは出て来ない話です。
これから、愛の哲学者また神学者としてトマスを理解すること、
これが僕の課題になるのかな、と考えます。
😃😄😅
日曜日の午後、大野城市と太宰府市の境界に位置するように見える
石原裕次郎メモリアルパーク入口の前から
大きな貯水池の横に続く細い路を通って、
妻と一緒に二時間程、山の新鮮な空気を吸って来ました。
途中で、沢山のワラビと出遭いました。
上の写真で、巨大なワラビ二本の背後に
見える二本のワラビがほとんどでした。
しかし、この巨大サイズのワラビは
生まれて初めて見ました。
お化けのワラビと思いませんか。
存在と言葉 (1)
前置き: 笑いを手掛かりに、存在と言葉の結び付きを
考えることが今日の考察の狙いです。
1 実は、この世の中で私たちは様々な笑いを体験しています。
つまり、笑いは一種類だけではない、多くの種類の笑いがある。
例えば、人において生起する行為の視点で考えますと、
すると微笑、可笑しいから笑う、wit 、冗談、高笑い、嘲笑――――
の多くの笑いを見出します。
笑っているひとを観察しますと、受け身的な感じで口許が緩み、
眼が優しい光を帯びて来る。また更に、場を和らげる冗談に
周りの人たちが乗って明るくなる。
攻撃的な笑いも有ります、本人が笑いの対象となるヒトに
攻撃的になり、そのヒトを嗤い飛ばす。
2 笑いに、笑われているヒトの視点から接近しますと、
笑われてもドーテ事はない、つまり、単に一過性のことと
してすぐ、忘れて仕舞う笑いから、後にダメージとして
記憶に残る笑いが見出せます。
屈辱の体験です。
3 いま、笑いという表現を横に措いて、
「笑いの存在」という今日の主題となる話に入ります。
笑いの存在とは、主語としての諸々の笑いの
述語付け的な側面に焦点を絞った表現です。
例えば、微笑は笑いである
高笑いは笑いである
嘲笑は笑いである、と言われる時に、三つの
文章に共通している述語付けが、笑いである です。
そして、確かに言語表現的には 述語の笑いである は一つです。
ところが、述語付けを行なう魂の動向・魂のリアリティから判断しますと、
笑いである は一つ以上の仕方である(ここでは三つ) と考えられます。
ここから、笑いの存在とは多くの仕方であるという考え方が出て来ます。
続きます。
🐸🐸🐸
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差出人: 0em3064y725588v@au.com
送信日時: 2021年4月7日 22:55
宛先: takanori0402kaneko@outlook.jp
件名: 紫色の花
1 今、台湾という国家が世界から、熱い視線を
受けているのは、二つの理由が有ります。
一つは、経済の視点です。
パソコンやスマートフォン そして車等々の産業機械の
基礎的な基幹部品の 半導体製造に関して、
世界最高の企業が台湾に在るからです。そしてあと、
オランダが続いて、世界有数の半導体製造の企業を
有する国だと言われます。
2 ところが、台湾が二つ目に、世界の注目を集めているのは、
軍事的な視点です。
6年以内に、台湾に中国が侵攻する。
この二つの話は、日本経済新聞朝刊が去る3月の中旬に
発表した記事の要約です。同じ日に、別々の紙面を使って
明らかにしたものです。
後者の侵攻に関して、アメリカは台湾を侵攻する
中国軍に勝てないのではないか、アメリカや日本が
ちからを併せても、中国の軍事力が上だという指摘です。
世界中の散らばっている原子力空母機動部隊を台湾海峡へ
集めたら勝つかも知れないが、台湾海峡へ到達前に勝負は
ついているとのこと。
3 2008年の リーマン ショック という大恐慌以来、
世界の中に躍り出た 中華人民共和国国!
困窮のなかにあった先進国に、兆単位の資金援助を
行い、救世主となった。当時の資金援助の最高責任者が
現在の中国共産党の副 主席です。
4 中国の海洋進出に、現在、多くの国が警戒の眼を
向けています。
フランスだけでなく、何とドイツまでが艦船を
東アジア海洋地域へ派遣する時代になって
しまいました。
前アメリカ大統領トランプの下で副大統領を務めた
ペンスが為した議会証言依頼、共和党 民主党を問わず、
中国を信用できない国、敵だと見做し、今日まで来ています。
一企業が国を支配するという信じられない時代の中で、
台湾にある半導体製造の会社は、まさしく、世界的に名の
知られたIT企業 さえもその支配下に置いているように
見えます。
アメリカ合衆国が台湾の世界的な半導体製造の会社を、合衆国へ
誘致した、という記事を読み、さすがだと思いました。
これに対して、日本は何をしている?
5 昔、1930年代に、満州事変をひきおこした日本。
リットン調査団がやって来ます。その後、日本は
イギリス、アメリカ等の連合国に包囲されて行きます。
今、中国と中国共産党に対しての大きな包囲網が出来つつ
ある、と考えます。
恐らく、この3年以内に台湾侵攻の有事が有るかも。
わたしたちも、身構えなくてはいけない?
🙁🙁🙁
上の写真は、この3月に一ヶ月、掛けて掲載された【私の履歴書】の
中、3月30日に載った主人公 島正博氏(現在、島製作所の会長)と
奥様のtwoshot である。
最後の日31日、アメリカ航空宇宙局からの要請で、世界初の
縫い目の無い服、宇宙服を納入した話が出て来る。
宇宙船の中、無重力空間でひとが動き、仕事をする際には
1gでも軽量で、決して服の切り屑が出ない服、それが
シームレスの宇宙服だ。
だが、スタートは手袋を造る会社だった。
お金の苦労と会社の業務の革新の話が繰り返される。
保険料を支払うべきお金に回そうとして、あと一人の会社幹部と
国鉄時代 の線路に飛び込む話が出て來る。
ただ、奇跡が起こる。
そこから世界的な企業へと発展、島正博氏の成功の人生の
秘訣を楽しむことが出来る。
何よりも、将来を予見するちからが素晴らしい。
ただ、リーマンシヨックの後、和歌山のラジオでディスクジョッキー
を勤めた奥様が、
そのお仕事を何年か続けられて、辞められた後、
あっという間に亡くなられた話は残念だった。
体重が75kg、自分は50kgと書いてあったが、奥様の死の後、
ぽっくり穴があいたとしか、島さんは書いていないのが
事の大きさを表している思う。
🐞 理性と時間 時間と魂の存在 四回目
1 魂の働きを考えます。
眼や耳そして触覚が頭に浮かびます。
触覚ということで、僕は痒みを先ず考えます。
水虫の痒み、左耳の中での、週に一二度感じる痒み、左上腕部の
少しだけ隆起し膨れた傷跡血管の痒みが、痒み で
浮かぶ具体的な内容です。
長い人生の中で見つけた智恵か、上の痒みはすべて、市販の酢を購入して、
それを綿棒に含ませて、痒いところに塗る処方をしています。
触覚と言えば、味を感じることが特に大切なのでしょうか。お酒を飲む人が
飲む透き通った焼酎の味が消えた、辛口の日本酒の味が無くなった 、或いは
ビィールの味が水を飲むようだとしたら、人生の楽しみが無くなった!と
感じるのでしょうね。
2 見ること、聴くことそし触覚を通して何かを感じることは、
魂の大切な働きだと考えます。
時間と共にある世界に関わる身体の感覚的な機能ですが、se habere という
habitus の視座で再把握しますと、こう考えられます。
例えば、視力や聴力に関わる能力を喪失していて、
使われます。ウィルスの為に死に臨んでいる、その可能性を持つウィルスに
かかった集団のことですが、
ここ、感覚の障害者についても、死とは向い合っていない、だけど
何らかの意味でのクラスターに属すると言えます。
それは、人生という道を考える際に、ある制限された世界に
身を置くことを意味するからです。
これまで、自己を持ち続ける、自己を持ち続けられないことの意味を
感覚能力に限った形で話しています。
3次に自己を持ち続ける、自己を持ち続けられないことの
意味を理性能力に着目して思索をしてみましょう。
ただここで、予備的な考察として
イメージ imageという言葉に注目して、
理性と感覚の境界を定める話をしたいと考えます。
イメージという言葉は、現在、理性へと拡がり、感覚における
イメージだけではなく使われているからです。
イメージという言葉の肥大化した世界で生きている私達が
向かい合うべき問題だと思います。
🙂