1 カトリック世界の聖人で、思索においてとても深い
トマスを、普通のひとに生かすことの出来る可能性はないか、
こうしたチャレンジ精神の中で生きています。
主著である『神学大全』の日本語の翻訳(創文社発行)が、
36冊にもなるトマスを、現在、経験主義の眼差しで観て行く、そして
それが行き詰まる時は新しく考え直せば良い、と考えています。
2 しかし哲学的な思索を経験主義を通して続ける、
しかしながら、そこから何らかの経験主義的な神学?が
打ち建てられることはないのでしょう。
存在そのものとしての神の 恩寵gratia に与る信仰
というものは、上の哲学の延長には位置しないからです。
多くの哲学研究者は神という言葉から離れています。
そしてその言葉が嫌いな思索家は、理性主義一辺に
走ります。
神はないと主張するだけでなく、また言います。
神は人間が創り出したものだ。しかも、
その神にヒトが支配されている!
しかしながら、この理性主義という 『信仰 』は
必ず、何らかの挫折を伴うと考えます。
ひとは理性への全き信仰という刃に、自ら傷つくことを
覚悟しなければならないからです。
3 ところが、逆に、人間のコア部分である理性(=自己)を
否定的に考えるひと達が存在します。
理性 、意志を含めた理性の存在を価値のないものと見做し、
神(のみ)への信仰を強調するひと達です。
プロテスタントと呼ばれていますキリスト教の
基本的な考え方です。
そして、神の存在の全きさと人間の罪深さが強調されます。
つまり、神がすべてであり、人間は無であろう。
4 この二つの両極端の思考法に対して、
トマスの優れた思考方法は、次の点にあるのではないでしょうか。
神の存在の輝きは理性の明るさと矛盾しない。
またこう言っても良いです。
理性の明るさの存在が、神の存在の輝きの受容、
つまり私達の信仰を準備する!
しかし、ひとはどうやって、理性の明るみに至るのか?
4信仰とはただの行為ではなく、ひとのあること・ひとの人格の
成立に関わっている重大事です。
そして、人格の存在とは必ず、理性の自己への立ち帰り
・自己認識を前提しています。
自己を何らかの形で把握する、このことがなければ、
まだ人格の意味は正確には出て来ません。
その人間がまともか、どうかを知ろうとするなら、
自己認識を持っているか、どうかを観たら良いのです。
そして、この自己認識をhabitusという持続の在り方から
深く把握し直しますと、実は、自己認識の完成が理性の完成に
到達することなのです。
6 自分は足りない人間だ、不完全な者だ!という認識を
持続的に持ち続けることが出来るひとが、実は
神の恵みに与ること、神への信仰への
すぐ手前に居るのです。
この事態を、理性の明るみと考えます。
🐸🐸🐸
分有という視座がトマスを読む場合
返信削除大切です
ただ 分有と離在ではない。
そこが要注意な点でしょうか
哲学を経験したひとなら、気付きますが、
返信削除対象認識 科学認識がまず、最初の課題に
なります。
しかし、ベルナール トマスの凄い点は
自己を知ることが対象認識 科学認識より
深いことを知っていたと言うことです。
それは理性の完成なのです。
逆に言ってしまえば、対象認識、自己を
対象としない認識はまだ、不完全なのです。