2021-04-17

🪐ジャンプする思考の大切さ

1 カトリック世界の聖人で、思索においてとても深い

トマスを、普通のひとに生かすことの出来る可能性はないか、

こうしたチャレンジ精神の中で生きています。

主著である『神学大全』の日本語の翻訳(創文社発行)が、

36冊にもなるトマスを、現在、経験主義の眼差しで観て行く、そして

それが行き詰まる時は新しく考え直せば良い、と考えています。

2 しかし哲学的な思索を経験主義を通して続ける、

しかしながら、そこから何らかの経験主義的な神学?が

打ち建てられることはないのでしょう。

存在そのものとしての神の 恩寵gratia に与る信仰

というものは、上の哲学の延長には位置しないからです。

多くの哲学研究者は神という言葉から離れています。

そしてその言葉が嫌いな思索家は、理性主義一辺に

走ります。

神はないと主張するだけでなく、また言います。

 

神は人間が創り出したものだ。しかも、

その神にヒトが支配されている!

 

しかしながら、この理性主義という  『信仰 』は
必ず、何らかの挫折を伴うと考えます。
ひとは理性への全き信仰という刃に、自ら傷つくことを

覚悟しなければならないからです。


  ところが、逆に、人間のコア部分である理性(=自己)を

否定的に考えるひと達が存在します。

理性 、意志を含めた理性の存在を価値のないものと見做し、

(のみ)への信仰を強調するひと達です。

プロテスタントと呼ばれていますキリスト教の

基本的な考え方です。

そして、神の存在の全きさと人間の罪深さが強調されます。

つまり、神がすべてであり、人間は無であろう。

 


4 この二つの両極端の思考法に対して、

トマスの優れた思考方法は、次の点にあるのではないでしょうか。

 

神の存在の輝きは理性の明るさと矛盾しない。

またこう言っても良いです。

理性の明るさの存在が、神の存在の輝きの受容、

つまり私達の信仰を準備する!

しかし、ひとはどうやって、理性の明るみに至るのか?


4
信仰とはただの行為ではなく、ひとのあること・ひとの人格の

成立に関わっている重大事です。

そして、人格の存在とは必ず、理性の自己への立ち帰り

・自己認識を前提しています。

 

自己を何らかの形で把握する、このことがなければ、

まだ人格の意味は正確には出て来ません。

その人間がまともか、どうかを知ろうとするなら、

自己認識を持っているか、どうかを観たら良いのです。


そして、この自己認識をhabitusという持続の在り方から

深く把握し直しますと、実は、自己認識の完成が理性の完成に

到達することなのです。

6
自分は足りない人間だ、不完全な者だ!という認識を

持続的に持ち続けることが出来るひとが、実は
神の恵みに与ること、神への信仰への

すぐ手前に居るのです。

 

この事態を、理性の明るみと考えます。

 

🐸🐸🐸

2 件のコメント:

  1. 分有という視座がトマスを読む場合
    大切です
    ただ 分有と離在ではない。

    そこが要注意な点でしょうか

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  2. 哲学を経験したひとなら、気付きますが、
    対象認識 科学認識がまず、最初の課題に
    なります。

    しかし、ベルナール トマスの凄い点は
    自己を知ることが対象認識 科学認識より
    深いことを知っていたと言うことです。

    それは理性の完成なのです。

    逆に言ってしまえば、対象認識、自己を
    対象としない認識はまだ、不完全なのです。

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