1 これまで制度、制度的なものに関わる記憶といっても、家族と
そこから生活の糧を得る企業の二つの話しだけでした。
前回の銀行の話を書いていて気が付いたのですが、記憶という視点が
稀薄になってしまい、銀行の制度的なものに話が集中して
しまうのですね。
融資という与信行為が、正しく行なわれたのか、それともそれとは
異なり、反対に不正な仕方で行われたのか。
公正さ、正しさの視点が前面に出て来て、わたしたちは法の世界に
向かい合わされてしまうのです。
ただ、池井田潤氏の場合、不正が暴かれ(その後消えていく)当事者の
情念表出の凄まじさの描写が印象的です、
今まで高慢あるいは傲慢な存在だったものが、崩れ落ちてしまう。
ある勝ち誇った言葉のなかで生きていた人間が、月見草の花が
萎むように、言葉を簒奪された沈黙の世界へと
蹴飛ばされてしまう。
信じて生きて来た自己が失われてしまっている、その衝撃に、
狂気に近い情念が溢れ出てもはや、自分が自分で
なくなってしまうのです。
そこに記憶の存在を観たらどうかと、考えます。
2 今日からは、過去の記憶と過去からの制度的なものの
記憶とは別の記憶に眼を向けてみます。
そして、過去の記憶と過去からの制度的なものの記憶の関係は
不明のことにしておきましょう。
そこで新しく、次のような発想をすれば、どうでしょうか。
基本的な視座、日常というものがある。この日常というものを音楽の視点から考える。
1) 差し当たって、ある何らかの未来を持って、いまを生きている、これが流れている。
2) それに合奏するように、ある何らかの過去の記憶が流れる。
3) それだけでなく、過去からの制度的なもののある記憶がまた、加わって流れる。
4) そして更に合奏した仕方で流れている音楽がある。
3 1)2)3)の三重奏に対して、新しく流れる音楽が広い意味で理解される
文化です。歴史的な遺産のことです。
以下、この歴史的な遺産を、特に個人的な、パーソナルな視点から、分析することが
大切な課題になります。
🗻
中世の哲学者、アウグスティヌスの「告白」のなか、特に第8巻での記述では、自己の性的な欲望の為に自己を見失って生きる姿のあからさまさが描かれます。
返信削除このことが、神への信仰の兆し、神への信仰を求めようとする傾きのなかで描かれるのが特徴的です。
信仰を求めようとすると、躰の性的な欲望がそれを邪魔する。アウグスティヌスは神に近付こうとして、逆に自己の醜さ
を知らされる惨めさを経験するのです。