大伴旅人の作品を見つけます。
ヒトの、自己の平和の実現の摸索こそが、国の平和の
全体が漢詩になっていて、その最初の
出出しの詩は、部分的に
初春令月 気淑風和 です。
すると、これを読み下し文にすると、
初春の令月にして 気 淑(よ)く風 和(な)ぐ
です。
2 で、現代語訳は、どうなるのでしょう?
時あたかも 新春の好い月、
空気は美しく 風はやわらか
になります(読売新聞四月二日朝刊)。
3 しかしながら、新しく始まる年号の
『令和』という呼称は、まだ、ピーンと
来ません、つまりよく解りません。
来ません、つまりよく解りません。
幸先の好い月の 風の和(なご)み、
それだけでは、 何を言いたいのか、
まだ曖昧ではないだろうか、と考
えるのです。
えるのです。
4 そこで、いま、提案したいと思うことは、
次のことです。
風が和むということをそれだけで理解
しないで、併せて、ヒトのこころが
和むことを考えたらどうでしょうか。
そうすれば、風という自然界の、風の吹き
方は、わたしたち人間のこころの在り方、
つまり、こころの風の吹き方の
あるべきモデルを示すことになるのでは
ないでしょうか?
風が和むは、こころの和みとしてのこころ
の平和を示唆するのであり、ヒトのベスト
な在り方を教えてくれるのです。
戦後何十年も経ちますが、一人一人の平和を
考えないで、単なる国の平和だけを
考える悪い習慣からは、もう逃げ出すべき
時が来ています。
ヒトの、自己の平和の実現の摸索こそが、国の平和の
礎なのです。
5 しかしながら、自己の責任において具体的に
考えるとして、ヒトのこころが 和む、とは
何でしょうね。
5 しかしながら、自己の責任において具体的に
考えるとして、ヒトのこころが 和む、とは
何でしょうね。
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