1 ousia にせよ、substantia にせよ、哲学の場面で
一番、問題となる 存在 ある を考えようとしています
もう少し、話を絞ります。
言表の場面では、言語の使われ方に気を遣りますと、
述語的な動詞の位置に、このあるが 来ることが
有ります
例えば、 美しくある • 美しい という時、
私達はまず、 美しい という述語的な表現に気が行き、
何が美しい かは二の次であることが起こります
美しくある 美しい と言ったまま、何と、黙りこくってしまう
美しいと言った後で、言葉で主語に言及する
(例― 美しい、あの顔は )
2 この言い回しは、まず 主語なるものを措てて、
その後に、述語的な言表を 加 え る
表現とは区別する必要があります
モナリサの絵は 美しい、と言われる
ここでは、レオナルド ダヴィンチをあるヒトが
知っている。その レオナルド によって描かれた
モナリサは、魂の美というものを描くのに
成功している、だがしかし、その前、その後の
美術史でも こういうことはなった
3 トマス・アクィナスの考察に戻りましょう
ハビトゥスの考察においても、上の 1での 述語的な言表に
おいて トマスの substantia が使われていることが、
決定的に大切です。
実体 という日本語があります。
井出 隆 元 東大教授によって ousia が初めて訳された言葉ですが、
この訳はよくない 日本語です。わたしが、今日の話で、
述語的な言表という言葉を複数回、使ったのですが、
そこでの ousia ― substantia のレベルとは、
区別されなければなりません
稲垣先生は、神学大全 第二― 一部、 第49 問題以降の
日本語訳の 担当者 ですが、
Substantia を 本質 と訳しておられます。
続けます
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