2022-01-09

& 愛を知っている 愛を知らない (1)

 

  1. 愛を知っている   愛を知らないとは どういう事なのか

 

1)最初に愛を知っている そしてまた また愛を知らない

とは、大きな語り口では どのような問題なのか。

 

大きな語り口では、愛とは何か という問題のことだ。

 

まず、愛とは何か という問題の措定の仕方が

尋常ではないことに気付かねばならない。

 

何々は   何 か という場合、目に見えるものを念頭に置いて

その目に見えるものとは 何かと問うことは、易しい。

 

例えば、ソークラテス は色白い において ソークラテス は

何か という問い が出されたとする。直ちにソークラテスを

目で見て、ソークラテスは色白いと述定する。

 

しかしながら、眼で捕らえ切れない事物に

ついて、それが何であるか を問うことは

容易ではない、つまり困難なことだ。

 

愛とは何かという問いかけは、まさしくこの種の

問題に属する。

プラトンの  大 とは何かという問題 はこの

地平において問われる、つまり イデア論の

地平とは論理が問題になるのだ。

 

次からより小さな語り口になる。

 

2) ここで大切なことは、愛である そのことを

二つに 分けることだ。

分ける という方法は  トマス・アクィナスの考察の

複数の方法の中で、一番基本的な考え方だ。

 

ある言葉を浮かべる、その言葉を 肯定的に 、また否定的に

考えてみる。相反する言葉を提示出来るか。

 

例えば、信仰と未信仰、希望と絶望。

 

上手く、思い浮かべることが出来ない場合がある。

例えば、信念の反対は何であろうか。

あなたは信念がない  と言う そのものに相当する

観念や概念を見つけること、それは難しい。

 

1) 愛を知っている  愛を知らないを二つに

       る とすればどうなるか。

 

imperfecta amor    perfecta amor

 

後者の完 全なと訳される perfecta とは、

愛の存在が充たされて、その終極に

来ていること。

 

この愛は残念ながら、人間には属さない 。ひとの

手に届かない愛である。

 

したがって、愛を知っている 愛を知らない の

中で、特に覚醒した意識の支配のもとに

【愛を知らない】と言う場合、この意味での愛は

謙遜さの証である。。

 

わたしは かつて、この愛を 愛の沈黙    不思議さと

呼んだのだった。

 

そして逆に、『〈この〉愛を知っている』とはひとが

決して、口にすることが許されないものだ。

何故なら、そのヒトは傲慢な人間だからである。

 

 

2) ところが、不  完全な愛imperfeccta amor 

反対に私たち 人間に属する。私たちが、愛と いう言葉を

使う時、普通は この imperfecta な意味での

愛のことを言っている。

 

愛と言う言葉の親和性はこの不完全な愛の方だ。

 

すると、人間が知っている不完全な愛と

完全な愛の、二つの愛に向き合って生きているのが

ひとの真実ではないか。

 

前者の完全な愛はひとの長い人生のなかで、

欠けること・欠落があるのは確かであるが。

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