2021-01-02

FW: 持続するもの、人柄と人格 ( 3 )

 

 

 

4 湯川秀樹の父親である小川琢二は明治3年の生まれで、歴史的には

明治27年、28年の日清戦争が起こる前が青春時代になる。

だが、彼の人生に大きな影響を与えたのは、同2410月に起こる

濃尾の大地震である。
震度7の内陸地殻内変動による巨大地震で、死者数は7000人を

越えている。

だが何と、琢二は、自然の猛威、恐ろしさを確かめようと

震災地へ出向く、ひとが止めるにも拘わらずである。
今日の私達は好奇心のことを考えるが、琢二の場合そうではなかった。

こうした経験から歩き回ることが、そして地質に関する標本を

集めることが、一年中の仕事になる。

この地理学の専門家が、京都帝国大学の研究室に入ったのは

明治26 9 である。

5
琢二が同郷和歌山の幼なじみの小雪と結婚するのが同

27年の秋である。

秀樹は、美人で、頭の良かったひとだと言っている。
亡くなる時、遺言として自分の脳を解剖して下さい、と頼む。
小さい時にブランコから頭から落ちて後遺症がずっと

残っていたか、どうかを確かめたかった、そう秀樹は言う

(しかし、解剖結果、後遺症は残っていなかった)

6
この理性的な母が、父琢二と衝突する場面がある。

青春期の秀樹の進学、京都の一中、三校への進学の後、父は秀樹を

他の長男や二男と同じように、大学に進めるべきか、どうかで迷う。

その大きな理由の一つは、『秀樹は何を考えているかわからない 』であった。
そして、琢二は秀樹を専門学校に入れようとする。みんな、大学にやると思うことに琢二は懐疑的になり、それぞれにあった人生を考えてあげるべきではないか、と悩むのである。

これに対して、琢二の妻は猛反対する。
『どうして、みんなの子供を平等に扱わないんですか?』

あと一回続きます

 

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