4 湯川秀樹の父親である小川琢二は明治3年の生まれで、歴史的には
明治27年、28年の日清戦争が起こる前が青春時代になる。
だが、彼の人生に大きな影響を与えたのは、同24年10月に起こる
濃尾の大地震である。
震度7の内陸地殻内変動による巨大地震で、死者数は7000人を
越えている。
だが何と、琢二は、自然の猛威、恐ろしさを確かめようと
震災地へ出向く、ひとが止めるにも拘わらずである。
今日の私達は好奇心のことを考えるが、琢二の場合そうではなかった。
こうした経験から歩き回ることが、そして地質に関する標本を
集めることが、一年中の仕事になる。
この地理学の専門家が、京都帝国大学の研究室に入ったのは
明治26年 9月 である。
5 琢二が同郷和歌山の幼なじみの小雪と結婚するのが同
27年の秋である。
秀樹は、美人で、頭の良かったひとだと言っている。
亡くなる時、遺言として自分の脳を解剖して下さい、と頼む。
小さい時にブランコから頭から落ちて後遺症がずっと
残っていたか、どうかを確かめたかった、そう秀樹は言う
(しかし、解剖結果、後遺症は残っていなかった)。
6この理性的な母が、父琢二と衝突する場面がある。
青春期の秀樹の進学、京都の一中、三校への進学の後、父は秀樹を
他の長男や二男と同じように、大学に進めるべきか、どうかで迷う。
その大きな理由の一つは、『秀樹は何を考えているかわからない 』であった。
そして、琢二は秀樹を専門学校に入れようとする。みんな、大学にやると思うことに琢二は懐疑的になり、それぞれにあった人生を考えてあげるべきではないか、と悩むのである。
これに対して、琢二の妻は猛反対する。
『どうして、みんなの子供を平等に扱わないんですか?』
あと一回続きます
0 件のコメント:
コメントを投稿