時間と魂の存在 三回目の続きの前半
前置き: 書き出して、次に投稿します。 何か間違ったことを
言ってないか、自分の記事に眼を通す。
それを自虐的な感じで繰り返す日々ですが、
時間と魂の存在とういうタイトルを観て、 《 と 》 の意味が
分からない、曖昧かも、と考え始めました。
時間と、言い出すとき 二つの仕方で時間を考えなければ
ならない。
量的な意味での時間 と 質的な意味での時間。
そして、わたしたちが慣れ親しんでいるのは、
量的な時間です。
単純に流れて行くものです。
この立場に立つ限り、魂の存在という表現は必ずしも、
続いて出て来る必要がない。
ただ時間が数えられることにおいて存在する、この限りでは
数えるところの主体としての魂の存在はある意味を
持つことが出来ます。
ところが、ここで特に、時間と魂の存在という表現とは
質的な意味を持つ時間と(この時間における) 魂の存在のことです。
問題は、この時間と魂の存在との結び付きです。以下、
魂の存在を厳密な仕方で理解される魂の善悪として考え、
質的な意味での時間と魂の善悪が如何なる仕方で
結び付けられるのか、を考えるつもりです。
そしてその手掛かりになる概念が ハビトゥスとdispositio です。
今日は、前置きが長くなりました。これだけで終わります。
続きます
0 件のコメント:
コメントを投稿