2020-04-23

画面を通して与る主の復活

🗻
1 今年、二月、灰の水曜日の夜の御ミサから帰って来た妻が、
教会のミサが暫く無くなると、僕に告げて以来、もう二ヶ月経ちます。

それでも、インターネットの画面越しに復活祭や復活の主日のミサに与ることが
出来て、良かったです。

ユーチューブの画面越しに、いくつか、発見が有ったからです 註)。


2 復活祭のライブ中継は、11日の夜に東京カテイドラルからのものでした。
司式を為さる菊地功 大司教の説教は、御声がとても理性的で
聴いていて明るくなる感じでした。

大司教の流れ出て来る言葉は厳密に論理的で、良いミサでした。

約二週間経って、僕の記憶に残っている言葉が有ります。その一つは、

ーーー  今、この世が十字架に架けられている。




3 イエス・キリストの十字架において、イエスは人間の罪と咎を
贖います。御自分の躰を売り渡し、世のひとの罪と咎をイエス・キリストは
買い戻します。

この贖いの為に、イエスは苦しまれるのです(何故わたしが十字架に?)。

しかし、父である神はこの苦しみと死の中から、
子であるイエスを引き揚げ、復活させます。 

わたしたちも暗闇である自分の罪と咎から解放されようとして、
神がイエス・キリストに為さったことを『私達にもして下さい!』と
祈ります。
この祭儀が、復活祭です。 

私達における、暗闇から光への脱出の時間なのです。

4 しかしながら、この世が今、新型コロナウィルスという
暗黒、悪霊に裁かれています。

この世が十字架に架けられている、とは単なる痛みと苦しみ
そしてその延長にある死が、人間に与えられているだけではないか?

何か有るのか、絶望以外に?


しかしながら、苦しみには、二種類有ります。
苦しみを自明の様に考えないで下さい!
ただの苦しみつまり自然的な苦しみと、自己の人生を考え耐えるべき苦しみです。


十字架そのものは、苦しみを象徴しますが、決してただの苦しみではありません。

苦しみの後に来る自己を深く洞察する時、苦しみを超えたものが出てくるのです。
それが希望です。

いまは、その希望の為の苦しみの時です。新しい自己を手に入れる為に耐える時です。

註)復活祭主日のミサは、アイルランドからの
  ライブ実況でした。
  その建物の中が重厚な感じで、
  古代の建築様式かな、と素人ながら
  感心した次第です。 

🐐🐑🐐🐖

2 件のコメント:

  1. ライブ実況は、
    SS.Peter and Paul's Church,
    Portlaoise, IReland からで、
    世界で約3500人の参加がありました。

    もちろん、今でも、再生出来ます。

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  2. 美しいという表現が、ピッタリです。

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