2019-11-02

記憶において拡がる「私たちの世界」  時間16回目

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¹ 文化と呼ばれるものが何処かメンタル、精神的なものの持続の世界に
属するのに対して、文明と呼ばれるものは、かって持続した技術科学の
世界、またある過去から現在まで持続している技術科学の世界に属します。

どちらも、ある共通点が有ります。

わたしだけの経験を超えた、ある過去からの持続の時間を意味するからです。
厳密な意味での共同体に係ると言うのは間違いですが、
広い意味での共同体に係る過去からのある何らかの持続の時間を
指し示すと考えます。

そして面白いことは、ここでは世界という言葉が時間と
同じ様な意味を持ち始めています。

2 文化の視点でまず浮かぶのは、故郷や古里でしょう。

あるひと、ある始めて会ったひとと話していて、たまたま、二人の産まれ
故郷が同じであることが判明すると、直感的にある限られた時間であっても
同じ世界に居た! という了解が起ります。

過去の経験という表現が、基本的に自己を中心とした世界の展開であると
考えられるのに対して、ここでの文化とは「私たちの世界の展開」だと考えます。 

確かに、故郷や古里という文化の共有が常に必ずポジティブな意味合いを
持つとは限りません。
上の文脈から離れた時には、『同じ世界に居た』(=同じ様な時間を持った)と
いう理解そのものからは、逆にネガティブな自己嫌悪感や相手に対する嫌悪感が
生まれることが大いに有り得ます。

例えば、会社で何でこんなヒトが社長をしているのか、と常々、
不審に思っているそうした時に判明したことが、社長は同郷のひとだった!
(にも拘らず何らかの機会にその社長と同席する機会が起こった場合には、
何か会話を始める糸口には成るかも)。

故郷や古里の共有は、相手の理解・認識を深める上で大きな意味を持つと
言って良いでしょう。

3 そしていま、持続という視座を前面に出しますと、これまで言及している
文化には、ある過去からの「わたしたちの世界の展開」という観点だけでなく、
その持続する持続性が過去からのわたしの記憶の持続性以上により持続的である、
という観点が見出されます。

続けます。
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