1 アウグスティヌスは、時間とはみんなが知っているものだ、
だけど、更に突っ込んで時間とは何かと問われるならば、
ひとはうまく応えられない、と語っています。
これに対して、僕は「そんなことはない!」と考えて、四月から
始めているのが『時間』です。
2 大学生の頃、研究室の演習は、ギリシャ、中世そして近世、現代の
三つがありました。
この中で、ギリシャ、『プラトーンの対話篇』のある演習が終わると、
研究室に帰って来た同時代のある出席者が 「割れる」
という日本語の表現を使うのを何回か、耳にしたことがあります。
こういう文脈です。
対話篇の中で、対話者の一人が自分の主張を打ち出して行く時、
命題という言葉の形で先に議論を進めていきます。
ところが、ある時、言葉が厳密に使われないことが起こる。
この時に、言われている言葉の意味が二義的な側面を帯び、
その言表をその場で聴いている別の対話者が議論の行く先が
掴めなくなり、困惑に陥ってしまうのですね(或いは、顕に
なっている言葉の二義的な側面に気付くことがなく、この別の
対話者も共犯者?のように先へと一緒に進む)。
正確な言い方をすれば、対話者が語っていることが論理的では
なくなってしまっている。
これを、「割れる、二つに割れる」と言っているのです。
3 ところが、今、上で言われていることの「絞り込み」のなさ、
とは対極にあたる考察の場面が、「時間」ではないか、と考えます。
時間とは何か、を問題にする際、絞り込む仕方での考察が不可欠だ。
秒的な流れの時間と、何処かそれを超えた日常の時間を一緒にした
仕方で時間を問うことは、意義のないことだ。
つまり、絞り込む仕方での考察を考えないといけない。
そして、この絞り込む仕方での考察が、「二つに分ける」でした。
4 誰かが、何かを語り出す時、まず、言葉を二つに分ける自己
チェックをしているか、どうかを確認しながら、自分が相手の
言葉を聴くことがとても大切です。
ひととの信頼関係の構築が始まるのは、ここからだと考えます。
🗻
普通、私達は対談と対話を混同して
返信削除います。多くの場合、二人、三人のひとが話す、とは対談です。
対話ではありません。
何か大切な概念が提示され、話しの中心が動く時、
「それは何ですか?」
という言葉が出て来て、相手に対して
質問漬けを続けることはない。
解らないから解るまで聴くことはない。代わりに、一応、知っている、解っている振りをするのが、出席者の取る選択である。
恐らく、プラトーンは一字一句を大切にする対話以外に真理の探求、そして
返信削除あるに届くことは有り
得ない、と考えていた。