2019-07-22
読書会
1 福岡県宗像市で先週末、20日の土曜日に開かれたトマス アクィナスの
読書会のことである。
読書会は、一人がその日の予定箇所の内容について報告する。そして
それについて、他の出席者からの質問や疑問が出される。
報告と質疑は、トマスの考察の仕方に合わせて、分節的な形を取る。
「神学大全」第二部の第二パート、第五項は、
『信仰に属するものは知識されたものであり得るか』が設問だった。
トマスの考察の仕方は、まず、異論が四つ紹介される。つまり、
信仰に属するものは知識されたものであり得る、ように み え ると。
異論 obiectio はみんな、それぞれが三段論法の形を取り、ある意味で
論理的なのだ(間違いが何処にあるか、探す必要がある)。
そして、これらの異論 に対しての反対異論 sed contra が一つだけ、つまり、
信仰に属するものは知識されたものであり得ない、と否定する、
ある権威者の考え方が提出される。
この二つの手続きの後に、初めて、トマス アクィナスの
自己主張としての本論(=解答)が始まる。上の二つの手続きが
トマス自身の考えとは思わない方がよい。
泣き言を言うのだけど、分析能力がないと、つくづく、トマスを
読み続けることが出来ないと思う。
どうして、第五項の設問は『信仰に属するものは知識されたものであり得るか?』
ではなく、『信仰に属するものは知識されたもので あ る か?』にしないのか。
ある不満を感じたりする。
言葉を厳密にしか使わないトマスの真意が何処にあるのか、
ピーンと来ないのだ。
2 近代以降の発想として、次の考え方が普通ではないか。
あるに届いているのが、知るまた知識である。
そしてあるに届いてはいない、即ちその前の段階で、
あるとはまだ言えないものがドクサと言われる臆見、
またこれと切り離せないところの動詞「思う」であろう。
「信じる」の使われ方も基本的にここにある。あるに届いていない。
ドイツ語で、Ich glaube…… とは、私は……と思うである。
そして、信仰また神を信じるは、また、このドクサに属する。
したがって、信仰また神を信じるとは、決して、あるに
届くことではない。
これが、近代人の私達が信じて生きていることであろう。
これに対してトマスの新しさは、信仰また神を信じるを二つの
場面に分けている点にあるのではないかと、考える。
トマスの「信仰に属するもの」という一見、曖昧にみえる表現は、
神という存在そのもの(真理そのもの)に与る信仰と、その為に
必要な知識(真理)の二つを包括している。
そして確かに、恩寵という神の存在に与る側面では、決して、
知っているという言葉は使えない。
そして、この与るという視座が信仰また神を信じることの
一番、大切な点である。
ところが、その準備の前階段では、あるに届く知るが
必要である。
信仰が決して、臆見に属するのではなく、知識と臆見の間に
ある、ということは上のように理解できる、と考える。
3 今年の二月に新著「神とは何か(副題 哲学としてのキリスト教)」を
出された稲垣先生は、長方形のティブルを挟んで、私の真向い左前方、
報告者の右横に坐っておられたが、快活な明るい御様子だった。
ふと、わたしはこれ迄の御著作のなかでも、理性や知性が
最も明るく描かれている新しい著作のことが頭に浮かんだ。
知性や理性が、自己認識という深まりのなかで考察されて
いるのが、この本の特徴だ。
信仰また神を信じることが反理性的な行為ではない、
また反理性的な意味での持続する習慣ではないことを、
長い時間をかけて考えることに成功した安堵感みたい
なものを先生の御顔に感じた。
いま、九十歳である。
退官なさった後の著作がそれ以前より、
多いのではないかと思う。
🗻
新著の前に書かれている「カトリック入門」から、自己認識の深まりの意味を
返信削除洞察出来れば、もっとより良く理解出来るかも知れません。