2022-11-20

続 ハビトゥス探究の始まり 8

1「健康」とは何でしょうか?

健康の考察も、病気と同じように
考えて良いように見えます。
つまり、

あ>ある病気の状態が癒された状態
或いは、ある病気が治ったが
 別の病気がまだ治っていな い。
 それゆえ、健康とまでは行かない、
 まだ健康だとは言えない状態です

い>dispositio としての健康
  普通、ここで健康が理解されます

う>habitus としての健康
 病気をしたことのない人間の
ことを考える?
何か神的な健康を考える必要が
 出て来ます



2 ところが、トマスの考え方は
決して、上に出している健康 観
ではありません

と言うのは、まず
う>のhabitusは、健康に対する
過信から出て来るもので、自己の経験
主義的な主張の反映でしない、と
推察されます

3 それでは、他の い>は何処が
間違いなのでしょうか。

そのことを語るには、
substantia ipsa habituum の
ハビトゥス(複数形)の本質そのもの
・存在そのものに関わる問題が
付帯し、今ここでは語れません、
遠回りする必要があります

4 ただ、ハビトゥスを稲垣先生流に
習慣と訳さないで、持続と訳した私の足場が大部、しっかりして来たのではないでしょうか。

ハビトゥスが、広い意味では
安定していない持続、そして
厳密な意味では安定した持続である
ことを、矛盾した表現であると
考える必要がない訳です

5 存在そして状態と言い方をしますと、存在と「マイナーな存在」と
しての状態と言うように、そこに
ある系列を考えることが出来ます


人間は身体と魂から成ります。
で、病気も健康も身体的な出来事に
属し、謂わば流れるような状態
として把握されます
ところが、魂の状態は善の場合、
存在であると理解されます

続けます

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