1 ある言葉がある、その言葉を目の前にして
何かを問う、これは 普通 誰でもやることです
habitus について トマスが 問うと言えば、日本語で
habitus についての本質そのもの、になると
考えたくなります
ところが、そうならなくて、複数の
habitus について、それが何かを問い始めています
2 これから、長いこと 探求が予想される
habitus について、最初の頃 articulus で
いきなり その本質そのもの 何かは
有り得ない、と考えられるのですが、
しかし、
複数の ハビトゥスをいちいち、念頭に浮かべて
それが 何かを語りだそうとする
トマス・アクィナスの光景とは
明白では有りません
3 なお、注意を払えば、あと一つ補足が
必要です。
本質と訳しています substantia について、ギリシャ語 の
ousia との関わりですが、ens と substantia が
ある を 表わします
ある に関して
一般的で広い意味の ens これに対して、
厳密で狭い意味での 使用方が substantia です。
ギリシャ語では、ens にon 、 substantiaに
ousiaが対応しているのです
脱線しますが、あるの 代わりに、普通は
存在 と 訳されるのですが、存在が日本語で
広まるのは、ごく最近のこと、この100年足らずです
ハイデガー の 著作 Sein und Zeit の 最初の訳では
有 と して出てくる言葉です
ある は実は、限りなく私達からは遠いのです
続きます
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