2020-05-15

克己と励ましを通して   ブログ再放送 2015-4-25

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 克己と励ましを通してーーーーーーいのちといのちの持続(六) 註1)ーーーーー

1 これ迄主題として取り上げている言葉は、ヨハネによる
福音書12章24節と同章、25節でした。

24節 よくよくあなたがたに言っておく。
もし一粒の麦が地に落ちて死ななければ、
それは一粒のまま残る。

しかし、死ねば、豊かに実を結ぶ。

   25節 自分の命を愛するものはそれを失い、
   この世で命を憎む者は、
   それを保って永遠に生きるであろう註2)。

2 この24節の前に起った大切な出来事は、
上の言葉を話すキリストと、数人のギリシャ人が
面会、面接しようとしていた、としていた事です。

まず、そのギリシャ人たちに一人の弟子が逢い、
その後に、キリスト本人に弟子の二人が彼らを
引き合わせ、紹介しようとするのです。



ところが、この面接は有りませんでした。

この面接をキリストが忘れたかの様に、
23節後半 人の子が栄光を受ける時が来たーー
24節 よくよくあなたがたに言っておく、
   一粒の麦はーーーと聖書は続くのです。


3 目の前に自分の時が来ていることを知っている存在、
それがいまを生きるキリストです。
その重大な時を、教えを乞う為に来ているギリシャ人に
割くことを避けるのです。

その代わりに、二人の弟子のフィリップとアンドレに自己を
吹っ切るかの様に声を張り上げて、告げます。


4ーーー  良く聴くのだ、わたしはこれから
    君達とは別の所に行く。

    だが、わたしはその苦しみに打ち克つ。 

    そしてまた、わたしの死は決して
    それだけでは終わりではない。

    
    それは一粒の麦と同じだ。

    死の後に、人びとの豊かないのちの
    みなもとに成るからだ。


    あなた達は自己自身をよく観て、 
    滅びの生に打ち克たねばならない。 

    この克己の生き方にこそ、いのちの充溢と
    持続するいのちの未来があるからだ。ーーーーー



註1)最初に書いた記事に手を入れてます。「新しい微笑いの詩」参照

註2)肝心の『一粒の麦が死ぬ』とは、次のように理解しています。

  麦の外皮の部分と麦の本質的な部分ーーここからこそ発芽するーーに
  別けて考えますと、麦の外皮は死んでしまわなければならない。

  もしも、外皮の部分が死なないで腐ってしまえば、全体が死んで、
  麦の発芽そのものがなくなる。

  人間の場合、麦の外皮部分とは身体の在り方から来る物の観方、
  特にこの世的な考え方を象徴化します。

  25節『自分の命を愛するものはーーー』とは、
  こうした意味での「自己」を大切にして
  生きているひとの末路、滅びの生を意味しています。


  後半以下はこれとは正反対の生き方の提示とこの肯定です。
 
  つまり、この世的な意味での自己だけでなく、その源である
  この世そのものに対しても、ある距離を取って
  生きることの出来るひとへの祝福が続きます。

 🌒引用訳は、フランシスコ会聖書研究所訳 
 1981年に依っています。

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