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1 普通、時という言葉は、時間の単なる長さを意味する、つまり
時間の『量的な』拡がりとして理解されます。
これが、時という言葉が使われる基本的な使われ方だと考えられます。
そして、補足すれば、わたしの、そしてひとの過去の経験を語る際、
この基本的な言葉の使われ方を中心に置いて構わないと考えます。
2 これから、量的な拡がりとしての時とは別の意味での「時」を考えます。
つまり、ある『 質 quality 』を伴う、ある質を持っている時のことです。
そして、これまで言及しています(したがって限定されて来ている)文化との
関わりにおいて、特に質を伴う時が見出される文化が有ることを
次回以降に指摘したいと考えます。
3 これまで時間とは、秒刻みの流れ、現在の日常的な幅を持つもの、
そして未来への志向性を包括する言葉でした。
そして、秒刻みの時間と日常として現在の考察に重きを置いていて、
このなかで持続、持続性を考えて来ました。
さて、新しい意味で用いている「時」の言葉の使われ方を考えますと、
歴史のなかで、次の時の使われ方、一例を発見します。
いまは時 あめが下知る 五月(さつき)かな
(天正10年 5月28日 ある場所で詠われた明智光秀のうた
ちなみに、本能寺の変は同年、6月2日に起こる)
🚩『下知る』とは命令する、の意味
4 ここでの『時』は、明らかに量的な意味ではなく質的な意味で
使われています。
日本語には、『旬の時』と言う表現がありますが、この言い方は
まさしくやって来た、という時間の高まり、時間の集中を
意味する為に用いられます。
続けます。
🗻
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