2019-05-06

想起また記憶と呼ばれるもの   ブログ 再 放送     

🛣️ 想起また記憶と呼ばれるもの   新しい微笑いの詩 1014-07-06

🛤️ 時の存在は何処において見出されるのか(3)



小学校に入って一年目の秋、僕は学校から離れたことがあった。
盲腸手術の為に近くの病院に入院したのであった。

膿が広がったのか、腹膜炎を患っていて、重たい方の
盲腸手術だった。

父親が僕をリヤカーに寝かせ、舗装されていない埃が立つ道路を
病院に連れて行った。
入院は一ヶ月以上になった。


この五歳の時のある日、小学校一年の同じクラスに属する
女生徒が見舞いに来たことがあった。
郵便局長の家族の姉妹を連れて、三人で僕一人しか居ない個室に
何気なく入って来たのであった。

その時の僕の驚きは、ただ「恥ずかしい」というものだった。

英語で ashamed だと言えば、悪いことをして、その行為を
恥じることなのだろうけど、僕がひととの関係で「恥ずかしい」と
言うのは、その恥ずかしい、ではない。

ただの苦痛と言った方が判りやすい。


約60年程前の、この記憶はこれまで何回となく目の前に甦り、
しかもいまでも甦る(これからも甦ることがあるのだろう)。

想起とは、過去のあることを再現前化することであり、
この現在化されたものを、特に記憶と呼ぶ。

僕が考えるのは、想起と呼ばれるものは、二種類あるのではないかということである。
ある想起は、安定性が高く持続的である。ところが、ある想起は
安定性がなく持続的ではない。

質的に異なる想起、そしてそれに呼応する記憶があるように考える。
🗻

1 件のコメント:

  1. 以前と少し違うのは、想起や記憶を理性の働きに属するのではないか、と
    考えていることです。理性を前よりひろく捉えて、世界を觀ています。

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